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ミラーボール✨と武装スナイパー

↑前


1997年-

カイロの"カサノバ"というクラブ(ディスコです、念のため)も、テロ攻撃標的になったり、警察に摘発されたりしていた。(←多分酒類提供、マリファナの巣、風紀の乱れが理由。)

だから、以前はよく行っていたけど、もうこの頃には私もさっぱり足を向けなかった。


その代わり、一応平穏だったナイルヒルトンホテルのクラブにはたま~に行ったが、まあお粗末だったことよ...

DJも下手くそだったし、何よりもミラーボールにびっくらこいた。日本でもニューヨーク、ロンドン、パリでもクラブでミラーボールだなんて、見たこともない。

(今は逆に進化型ミラーボール復活しているが90年代、"普通の"国のクラブでは、ミラーボールは完全に時代遅れだった)

ナイルヒルトンのクラブの、ぐるぐる回るミラーボールの下でベリーダンスを踊り明かす、髭面のエジ男君たち...

この光景は、多分死ぬまで忘れないくらいのインパクトで、むしろ死ぬ前に、ミラーボール下で顔の濃いエジ男君たちが、ベリーダンスをしている走馬灯を見ちゃう気がしてならない。ドキドキ...

この後訪れた、ドバイのクラブでは、DJも世界一を呼んじゃっているとか、VOGUEのモデルたちが何故か踊っているとか、あのマドンナを使った蛍光板広告が光っているとか、もう別世界! まあ落差の激しかったことよ!


ナイトヒルトンのクラブは、3/4がエジプト人男性 (当時、エジプト人女性でこういう夜の盛り場に来るのは、女優や歌手ぐらいで、"かたぎ"の女の子は普通は来なかった。)、1/4がヨーロッパ人とアメリカ人。

アジア人はわずかで、日本人の留学生たちまたは、フィリピン人の家政婦/子守さんたちだった。

フィリピン人の女性は、英語が話せて子守もとても上手で、料理や掃除もプロらしく、だから日本でもフィリピンの女性に家政婦や子守を依頼する家庭が多いのだろう。

ただ中には、見知らぬエジプト人男性と、すぐにその場で"濃厚な"密接チークダンスをするフィリピンの女性たちもおり、同じアジア人女性として、そういうシーンを目の前にすると、何とも言えない複雑な気持ちだった。

(大学時代の、私の経済の先生は、非常に優秀なフィリピン人女性でした。大学での私の友達もフィリピン人女学生でした。なので決してフィリピンの女性イコールネガティブなイメージではありません)


クラブに来るエジプト人男性は、アメリカ製のジーンズを穿き、横文字プリントされたTシャツを着て、バドワイザーやハイネケンを飲んで、マルボロを吸っていた。

彼らはクラブの外国人女性、特に金髪ぽっちゃり女性を見つければ、大勢で取り囲み、女王のように崇めて英語で話しかけちやほやしていた。

西洋かぶれのエジプト人は、ベリーダンスは踊っちゃうけど、アラビア語なんかしゃべらなかった。

英語とフランス語をカッコつけて話し、モスクにも足を運ばずクラブ(ディスコ)に繰り出し、外国製のアルコールを飲んだ。


ところが、ナイルヒルトンホテルの外に出ると、がらっと何もかも変わる。

裸足のホームレスのお母さんと子供、みなしご(コジキの子供)が大勢いて、ロバに野菜を積んだじいさんたちがいる。

"祈りだこ"(ちゃんとお祈りをしているモスリムは、額に痣ができている。毎日五回、床におでこを打ち付けているからだ) の男たちも大勢、ホテルの外にはいた。

彼らの手にあるのは、バドワイザーの缶ビールではない。イスラム教の数珠玉だ。(※イスラム教の数珠は仏教から来た、という説もあり)


エジプトはスエズ運河と観光で巨万の富を得ていた。しかし国民、特に大衆にはその恩恵が全くなかった。

外国人の私から見ても、一目瞭然だったが、貧富の格差が凄まじいことになっていた。

また、アメリカ企業が次々に入ってくるに従い、アメリカかぶれするエジプト人(特に中産階級)も増え、

かたや、社会主義傾倒だったナセル大統領時代を、懐かしむ声も大きくなっていき、

国が真っ二つにどんどん分かれていっているように見えていた。

これは一触即発の状況だな、と傍で見ていてもはっきりそう感じられた。

私ですら気づいていたのだから、政府が何も分かっていない訳はない。

そこで政府が行っていた対策は、不都合な真実は全て大衆の目から隠す、そして極度な愛国主義者やイスラム原理主義者を片っ端から捕まえていく、ということだった。


さて、ドバイの中東ゴージャス航空の入社試験を受けるちょっと前だった。

ゴールデンウィークが終わると、エジプトは猛暑なので日本からも観光グループはほとんど来ない。

が、それでもたまに、ツアーは飛んできており、夏でもぽつぽつ、私は観光ガイドの仕事を入れていた。暑いから本当は嫌だったのだけどネ、貧乏学生だったから背に腹は変えられない。


この夏に担当した、あるツアーの真っ最中のことだった。エジプト航空に"また"何か問題があり、急に飛ばなくなった。

仕方ないので、アスワンからルクソールまで、バスで長距離移動することになった。


こういうことは何度かすでにあったので、旅行会社のアシスタントも慣れたもの。この時も、こっちが言わなくても率先して、すぐに次のレストランの予約をキャンセル。

ぱっぱと最寄りレストランでランチボックスを人数分、手配してくれた。


陸路移動の時は、もちろん普通は必ずツアーグループ専用の、きらびやかな高級大型バスが用意される。

ところが、この時期はテロが集中的に多発していたので、警察からストップがかかった。

「いかにも外国人グループが乗っている、と一目で分かる高級バスを利用するな」。

「...」


で、用意されたバスは、もろにおんぼろなローカルバスだった。
しかも乗り合いバスで、同じ飛行機に乗れなかった乗客は何台かに分乗して乗れ、という。

私がガイドする日本人ツアーグループに、ぼろいにしろ専用車を用意できなかったのは、何かが理由で、警官とスナイパーの人数が足りなかったからだ。

(ここでのツッコミは、こんな状況で、エジプトにどんどんツアーを出していた日本の外務省&旅行業界...)


おんぼろ乗り合いバスは全部で5台だった。最前にパトカー、次にバスが続き(私のバスは後ろの五台目)、そしてお尻にはまたパトカーがついた。


ところで、エジプトで観光ガイドをやっていると、必ずエジプト人のライセンスガイドの同行が必要だった、と以前書いた。

そして実は、ライセンスガイドだけではなかった。

ルールでもう一人、特に陸路移動の際には、必ず外国人ツアーグループに同行させないとならない者がいた。

すでに上に書いたが、そう武装したスナイパーだ。


電車移動(ワゴンリーの寝台列車含む)でも、観光バスの長距離移動でも、必ず大きな機関銃を抱えたスナイパーが、同乗した。これは当時のツアーグループの皆さんも覚えておられるはずだ。

(たまに政府の謎のエジプト人も同乗してきた。ガイドが何を話しているのか、などのチェック?だったのかもしれない)


この時は、乗り合いだったので、私の日本人グループと、エジプト人たちと、そして白人はひとりだけ、ドイツ人年配女性(ハイデルベルク出身だったので以下、"ハイディさん")が乗った。

運転手は、私が観光ガイドというのを分かっているので、

「(運転手席の横の) ガイド席に座りなよ」

とニコニコ言ってきた。

冗談は止してくれ、一番襲撃されやすい席は勘弁してくれ。


私はグループの皆さんの一番後ろの席に座った。ぼこぼこの椅子で、お尻が痛くなるのは、発車前から確実だった。

私の隣には、ドイツ人女性、ハイディさんが座った。ものすごく不安そうで、必死に私にくっついていた。

それもそうだろうと思う。

何故か、飛行機が突然フライトキャンセルになって、おんぼろ乗り合いバスに自分が積められ、

そのバス前後には護衛のパトカーが付き、しかも警官全員がいつでも狙撃できるよう、大きな機関銃を構えて持っている。

バス車内にも、大きな機関銃を持った、武装スナイパーが乗っている。

外の景色は、ひたすら畑の光景が続く。道の左右に続く木々は白いペンキで塗られている。夜道でも車が走れるようにだ。あとは真っ暗。

バスの中の乗客は、日本人グループ以外、ガヤベーヤ(民族衣装)姿のローカル人ばかり。

ひとり旅のハイディさんは、本当にドキドキハラハラしているらしく、必死に私たち日本人グループのそばにいたい!という様子だった。


しかし道中、私といろいろ雑談しているうちに、彼女はだんだんリラックスしてきた。

(ちなみに彼女が打ち解けたのは、私が 「"ネーナ" と"ジンギスカンカーン"は今どうしていますか?」 と聞いたのがキッカケ!)


「日本旅行をしたこともあるのよ。

日本は、その辺で売っている安物の服でも縫製がしっかりして丈夫で、なにもかもクオリティーが素晴らしい。

だめかろう悪かろうファストファッションがない。心底感心したわ」。(←これを書いている今、耳がイタい...)

彼女が饒舌になって、そんな話をしていた時だった。


バスの後方窓ガラスに銃弾が撃ち込まれた。


すでに車内も外も暗くて、あまりにも一瞬の出来事で、幸運なことにたまたま誰にも当たることもなかったため、全員ポカーンとしていた。


が、さすがスナイパー。瞬時に言った。

「全員、ふせろ! 」

私はすぐに日本語で

「皆さん、ふせて!うずくまって!」

と日本語で叫んだ。グループの半分は眠っていたのだが、起きていたメンバーたちが、すぐにいびきをかく仲間を起こしてくれた。

とっさにアラビア語を聞き取れて、本当にアラビア語を学んでおいてよかった、と心底思ったが、こんな命がけの危険な仕事だったのに、日給が雀の涙だけ...トホホ (←でも一番命懸けのスナイパーの方がもっと給料が悪い)


スナイパーはすぐに無線で、前後のパトカーや他のバスのスナイパーらに連絡。同時に

「このまま走り進め。その方が安全だ」

と運転手には指示をした。

運転手も突然の襲撃を受けるのは、初めてではないので、言われなくても分かっているよ、というように頷き、護衛パトカーに挟まれたまま、前のバスに続き猛スピードを上げた。

スナイパーは乗客全員を守ろうと、大きな機関銃でいつでも抗戦できる体勢だった。


超飛ばしまくりの、おんぼろバスの座席の足元のところにしゃがみ込みながら、横にいるハイディさんは、ガクガク震えていた。

「世界には安全で素敵な場所はいっぱいあるのに、どうして私は貴重な休暇を、こんな危険でろくでなしの国に費やすことにしちゃったんだろう...」。

私は顔を上げてちらっとスナイパーを見た。顔つきからして、南エジプトの農村部出身だ。まだとても若い。

緊張感漂った顔つきで、耳と目に神経を研ぎ澄ましていた。給料、めちゃくちゃ悪いのに命を懸けている。


カイロのカサノバやヒルトンのクラブで酒を飲みナンパしてへらへらしているのもエジプト人。

そしてクリスチャンと外国人を殺すのもエジプト人。

また身体を張ってクリスチャンと外国人を守るスナイパーもエジプト人。


そんなことを思っていたら、脳裏にはカイロのクラブのミラーボールが浮かんできた。ライトの当て具合で見え方が変わるミラーボール...


ハイディさんはまだぶつぶつ言っていた;

「ああ、なんて私は愚かなんだろう。なんで私はこんなテロ国に来ちゃったんだろう。なぜハワイに行かなかったんだろう、どうしてタヒチにしなかったんだろう...」

私は励まそうと思った。

でも、なぜか口から出たのは、

「大丈夫大丈夫。絶対ハワイには行けるって!少なくとも、"来世"(in your  next life)には!」。

言ってしまった後に、しまった!

案の定ハイディさん、白目をむいた。

「えっ!? 来世!?」


その時、今度はバスのフロントドアが狙撃された。ガイド席の真横だ。(←座っていなくて本当によかった)

ハイディさんだけでなく、日本人グループのお客さんも悲鳴を上げた。

一寸先、闇とはまさにこの状況。実際真っ暗闇だったし。

おんぼろバスは、がたがた道を全速力で走り続けている。だから揺れる揺れる! とにかく振り落とされないよう、私もみんなも、床にしゃがみながら、必死に目の前の座席背もたれに抱きついてた。


つづく


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↑これはカイロからアレキサンドリアまでの長距離列車。所有時間3時間?だったかな。

カーテンしているのは、外国人ツアーグループが乗っているのを、見られないように。

でも移動中より、カイロ中央駅が危険なので、さすがに毎回自分が組む添乗員さんには、

「日本に戻ったら、旅行会社に苦情を出してください、ルート(旅程)変更してください」と文句を言っていました。


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