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ラクダの国から熊の国チェコへ転職(上)〜Loloのチェコ編①


「チェコスロバキアじゃないよ、チェコだよ」

 チェコに移ることが決まった時、周りの人々は口を揃えて
「へえ、今度はチェコスロバキアに住むんだ」

 その都度
「違う違う、チェコスロバキアじゃなくてチェコだってば」
「はっ?チェコスロバキアじゃないの?チェコとスロバキアって分かれたの!?」
とえらく驚かれました。

 この約9年前。
 チェコスロバキアで大規模なデモが起こりました。デモは拡大し、最終的に共産党政権が倒され、社会主義が終焉を迎えたのですが、ほとんど無血で、穏やかでスムーズでした。

 そう、まるで滑らかなビロード(Velvet)の布地のような革命だったため、フランスの新聞社がこのチェコスロバキアの革命を「ビロード革命」と呼びました。

 するとチェコ人もスロバキア人も、この名前を気に入り、彼らも公式に「打倒・共産党政権デモ」を「ビロード革命」にしました。

 このビロード革命でチェコスロバキアは分断され(⇒修正:ビロード革命の「約3年後」に)、チェコとスロバキアに分かれましたが、実はもともと1918年まで、チェコとスロバキアは別々の国でした。よって元に戻っただけです。

 しかし日本ではチェコスロバキアの国名があまりにも定着しすぎていました。その一番の理由がベラ・チャスラフスカの存在だったと思います。

 私はまだ生まれていなかったのですが、1965年の東京オリンピックの時、チェコスロバキアの代表女子体操選手として、チャスラフスカが来日。
 当時「東京の恋人」と呼ばれ、日本で大人気になったそうです。

 東京オリンピックで来日し、日本でチャスラフスカ・フィーバーを巻き起こした時の話は、実はプラハで私はチャスラフスカさん御本人からあれこれ直に聞いています。

 今度、改めてそれを書いてみようと思いますが、とにかくこの彼女の存在から「チェコスロバキア」はもしかしたら日本でぐっと認知度が高まったのではないかな、と思います。あとは1968年の「プラハの春」の報道でしょう。

 ビロード革命の頃、ソ連も崩壊し、それによって旧ソ連邦から新しい独立国が一気に誕生し、そちらばかりに脚光を浴びていました。
 よって、チェコとスロバキアが分断したことに普通の日本人はあまり分かっていませんでした。なお、エジプトの場合は逆で、エジプトとスーダンが分断される以前のエジプト・スーダン王国の方が知られていませんね。

「チェコ共和国の認知度があまりにも低い」

 民主化を遂げたチェコには一気に西側の企業が押し寄せました。チェコのプラハとハンガリーのブダペストが西側と旧東欧の「窓口」に選ばれたからです。

 社会ががらりと変わりました。
 ロシア語やドイツ語ではなく英語を話す人間が採用されるようになり、また怠け者は解雇されるようになって、のらりくらりのお役所仕事で問題なかった各職場が弱肉強食の競争、そして実力主義に。

 このあまりの突然の変化で、時代の波についていけない人々もおり、いっときブダペストとプラハでは自殺者が増加しました。とくにブダペストでそれが顕著だったといいます。

 国営だった観光PR会社、旅行会社なども焦りました。
 社会主義時代にはなかった「ノルマ」が生まれたからです。しかしどうやって宣伝していいいのか、営業して集客すればいいのか、やり方が全くわかりません。
 そこで彼らは西側諸国や日本からそれらの分野の経験者をリクルートし始めました。

 私がチェコの観光と撮影PR会社に採用されたのは、観光大国のエジプトでの経歴を買われたからなのですが、その話の前に…

 エジプトを引き揚げた後、その前に少しだけドバイに住み帰国しました。

エジプト航空がドバイの航空会社募集を紹介


 以前の記事に書きましたが、ドバイの航空会社の就職の話が舞い込んだからです。

 エジプト時代、国内線の大幅な遅延の件で、空港でエジプト航空のスタッフとヤイヤイ口論でやり合っていたら、それを目撃していたエジプト航空の人事にスカウトされました。これが発端でした。

 そのスカウトマンはムハンマド・ムハンマド氏といいます。よくある名前です。

 当時はエジプト航空国内線の乗客のほぼ百%が日本人でした。ただし、徐々に新興成金のロシア人観光客の人数が日本人観光客に迫ってきていました。紅海行きのフライトはイタリア人とドイツ人ばかりでした。

「上エジプト行きフライトの乗客のほとんど全員が日本人だ。
しかしエジプト航空はタイムスケジュールがめちゃくちゃで、英語を理解しない日本人乗客といつもトラブルが起きている。前々からエジプト国内線に日本人乗務員を採用したいと思っていた」

 実際に、ルクソール行きが急遽アブシンベル行きになったり、突然アスワンに停まったりするなど、めちゃくちゃだったため、飛行場を降り間違える日本人がよくいました。

 自分で言うのもなんですが、確かに私はうってつけだったと思います。
 なぜなら、すでにカイロに住まいも構えており、エジプトのあれこれを分かっていたし、アラビア語もそのくらいはできて、健康で年齢もまだ若く、身長もあります。

 ところがです。人事担当のムハンマド・ムハンマド氏がこの話を上に持っていくと
「馬鹿者。エジプト航空は国営で、外国人を採用できないんだ」

 ムハンマド氏は採用担当であるにも関わらず、それを忘れていたのです。こういうところがさすがエジプト人です。

 そこで
「エジプト人との偽造結婚をして、エジプト国籍に変えたらどうかな」
とムハンマド氏に言われました。
「はっ?」

 ええと、どこから反論すべきか。

 世界で最強と言われていた日本のパスポートを放棄して、なぜハイジャックされたり落下したりエンストばかり起こす航空会社で安い給料で働くために、エジプト人と偽装結婚しエジプト国籍に変えねばならないのでしょう。目眩がします。

 デメリットしかないので、
「せっかくですが、諦めます。色々ありがとうございました」

 するとムハンマド氏は、日本人の奥ゆかしさで私が事情を飲み込み、すっと辞退したと勘違いをしました。
「驚いた。これがエジプト人の女性ならぎゃあぎゃあわめきたてて、意地でも自分を雇えと訴えるのに、LOLOさんはすっと身を引くというのか」
 なんだか感動までしている様子でした。「おしん」の見過ぎです。

「英文履歴書とは非常識だ」

 その数日後。

 ムハンマド・ムハンマド氏から電話が入りました。もうスカウト話は終了したと思っていたので、「何の用事だろう」。

「エジプト航空日本支社に連絡を取った。
 日本支社側で君を採用し、実際には君はこっちの国内線で勤務してもらう。これでどうだろう?と話した。
むろん給料などは日本支社から出してもらうことになるが、もとを正せばこちらの本社から出ている予算だ。問題ないさ。ちょうど明後日、日本支社の採用担当の◯氏がカイロに飛んでくるので、LOLOさんと面接するよう言っておいた」
「えっ?明後日?」

 家のワープロが壊れていたので、急いでタクシーでナイル・ヒルトンホテルのビジネスセンターへ行き、英文履歴書をタイプしてもらい、日本人面接官に会うためのジャケット探しをしました。

 タクシーで何軒も周りました。だけども、ない、ない、ない。
 灰色、黒色、紺色の地味なジャケットがどこにも売っていません。

 どれもこれも赤色かオレンジ色、ピンク色だったり、またオール巨人阪神のような真っ黄色のジャケットばかりです。
 それにジュディ・オングの衣装そっくりの、何かひらひらが袖についていたり、ジャケットに派手な星マークや蜂のパッチワークが入っています。
 
 ストッキングも数年ぶりに履きました。これはラムセス・ヒルトンホテルの別館でやっとドイツ製のを見つけました。カイロの物価で考えると、どえらく高かったです。

 時間もない中、その2日後。
 カイロ国際空港そばにあるメリディアンホテルへ向かい、そこのロビーのソファーで日本人人事氏に会いました。

 するとです。その人事氏は大幅に遅刻して登場し、仏頂面で、私が挨拶をすると完全に無視し、返事も会釈もされませんでした。
 そして眼の前のソファーに腰を掛けると、大きなため息をつきました。

「困るんだよね、日本人採用は日本側のハンドルなのに、本社に口を挟んでもらいたくない。非常に迷惑だ」

 ならそれを私にではなく、ムハンマド氏に言えよと思いましたが、とりあえず、低姿勢で履歴書を手渡しました。

 すると日本支社人事氏は
「なんだ、これは?」
と私の履歴書を目の前のテーブルに投げました。
「英文の履歴書とは非常識だ。こんなのに目を通す価値もない。だから外国に住む日本人は嫌いなんだ」
「えっ?」

 唖然です。外資なのに英文の履歴書を叱られるとは、夢にも思いませんでした。本当に驚きでした。

 しかし日本人人事氏はぎろりと私を睨みこう続けました。
「その派手なジャケットも非常識だ」

 私はモスグリーン色のジャケットを着ていました。結局これしか見つけられなかった。売っていたジャケットの中でもっとも地味なタイプです。

 私は詫びながら、日本のリクルートスーツが入手できない、時間もなかったので外国まで買いにも行けなかったことを説明しました。
 
 と、
「ああもういい、いい。面接で口答えするなど驚きだ。外国に長い連中はすぐにこれだ。呆れてものがいえない」

 カチンときました。でも日本支社の言い分も分かるのが、確かに日本人採用は全面的に日本支社に任せられているし、私の給料の問題もでてきます。そもそも日本の会社というのはイレギュラー性を嫌います。

 そして私もすでに長くエジプトに住んでいますし、日本の大学で就活のノウハウやマナーを学んでいませんから、きっと日本の感覚ではかなりなっていない言動があったのかもしれません。

 なので、人事氏がむっとするのも不思議ではありませんが、ねちねち批判ばかりとは…。これは面接でもなんでもありません。単なるいびりです。ショックでした。

「じゃあドバイの航空会社を」

「どうだった?」
 その夜、電話でムハンマド氏に面接のことを聞かれた私は率直にその内容を報告しました。

「えっ?エジプト航空の支社のくせに、本社が紹介した人間(私のこと)に対してそのような態度を取ったのか。これは本社に対しても失礼だ」

 するとムハンマド氏は今度はなんと。ドバイの航空会社に私のレジュメを直接渡してくれました。このことは事後報告され、びっくりしました。

 別にそこまでして航空会社に勤めたいという気持ちはさらさらなかったのですが、よほど「悪いことをしたなあ」と思ってくれたのでしょう。

「ドバイの航空会社はOKとのこと。よって◯月◯日、マリオットホテルへ行きなさい。そこで入社試験を受けなさい」

「でもエジプト人のみを募集した試験ですよね?そこに日本人の私が受験できるのですか?」
「その辺りはすでに確認済みさ。
 ドバイの航空会社の採用担当責任者とは直接話した。イギリスの彼女いわく
『エジプト航空本社が推薦したぐらいだから、ちゃんとその日本人にも試験を受けさせてあげましょう。紹介してくれてありがとう。日本人の彼女に会えるのを楽しみにしている。試験頑張れと本人に伝えておいて』
と、にこにこしていたぞ」
「…」
 胸が熱くなりました。ああいう日本人人事氏の非道な対応の後だったので、尚更です。

なぜイギリス人が?

 イギリス人がドバイの航空会社の採用に関わっているのは、イギリスのなんとかマーケティング会社が一任されていたからです。

 ドバイでは当たり前で、ドバイ政府観光局もその業務をイギリスだったかオーストラリアだったかのマーケティング会社に丸投げしていました。
 もしオリンピックを開催する場合でも、ドバイなら外国の実績のあるプロの専門マーケティング会社に全てを任せると思います。で、大成功させる…。

 それにしても、ドバイの航空会社の窓口であるイギリスのマーケティング会社。その度量の大きさ、懐の広さにほろりときました。
 これが日本ならば
「ああだめだめ。エジプト人採用という決まりがあるから、他の外国人は受けさせない」
けんもほろろだったでしょう。

 ドバイ航空の面接では、イギリス人女性の採用担当者は笑顔でしっかりと私と目を合わせながら、私がアメリカの大学で学んだこと、そしてエジプトで得た経験や苦労し乗り越えた話などをじっくり聞いてくれ、
「こんな国に一人で留学。それがいかに大変なことか」
と、じわっとくる言葉をよこしてくれました。涙がでそうになりました。

 しかし結局、繰り返しますがエミレーツは日本支社がまだなかったのと、まだ日本に就航していないということで、本採用話は流れました。

 タイミングが残念でした。あと数年後だったら、私がエミレーツ航空日本人乗務員第一号になっていた「かも」しれません。落とされたかもしれませんが。笑

ドバイで働こうかどうか

 この流れで、ドバイに渡り、ちょっとそこに住む人々の知合いが生まれ、ドバイのホテルや旅行会社の求人を声をかけてもらいました。

「ドバイに住んで働く…」
 心が動かないでもなかったですが、ドバイでは(当時は)外国人の労働ビザは五年(三年だったかも)がマックスでした。これに悩みました。

 なぜなら、ドバイで3年か5年働いたら、アラサーで日本に戻ることになります。そうなると確実に仕事にありつけないからです。

 25歳までしか女性は正社員に就けないという風潮がまだ強かったので、ましてやまだ一度も日本で就職をしたことがない自分が、本帰国したら就職できないんじゃないだろうか。真剣に怖く感じました。

 以前はこういう不安を持ったことがなかったのですが、就職や結婚など意識しだしていたこと。日本がどんどん不景気に陥っていると聞いており、本帰国を延ばせば延ばすほど、日本社会に溶け込めなくなるのではないかというドキドキ。

 
 ところでドバイは、西洋人の若者にとってはキャリアのステップアップの国でした。

 箔をつけるためにドバイで働き、さくっとまた次の国へ移動する。特にホテル業界ではドバイの7つ星ホテルでの勤務経験があるというのは、大きな強みになりました。

 私が出会ったのはイギリス人とドイツ人の若者たちで、中にはカップルでドバイの一流ホテルで働いていました。
「次は一緒にニューヨークの◯◯ホテルに移るつもりだ」
 と二人で目を輝かせていました。

 そのカップルが実際どうなったか知りませんが、一般的にヨーロッパのホテル学校を出た後にアジアか南太平洋、ドバイのホテルで経験を積み、その次にニューヨークやパリなど大都市のホテルへ…というステップアップの流れがあったようです。

 でも、私は転職の数=ステップアップではなく、ステップダウンの風潮かつ年齢制限や雇用において性の壁がある日本出身です。
 だからいくらドバイを気に入っても3,5年でこの国を離れねばならない、ということに頭を抱えました。

「う〜ん」
 よって、悩んで悩みましたが、結局帰国し、日本で就活を始めることにしました。

 余談ですが、その前にヨーロッパにちょっと寄りました。(大きな荷物は先にカーゴで日本に送っていました)
 日本の女友達からは
「免税店でスヴェルトを買ってきて」。

 誰も彼もが「スヴェルト、スヴェルト」。
「ウルトラマンの仲間?」
と思いきや、スイスの痩身美容液だといいます。日本で大流行しているとのことで、免税店で一本80ドルでしたが、日本のデパートで買うともっともっと高いと。

 太っている=ビューティーの感覚のエジプトに住んでいた私としては、痩身クリームにそれでも80ドル「も」支払う感覚がわかりませんでしたが、結局20本くらいレジに持っていったら、転売目的のバイヤーだと勘違いされ、結局5本しか売ってもらえませんでした。

日本に帰国

 久しぶりの日本は本当に貧しくなっていました。
 カイロに飛んで来る政治家たちが
「君ね、ずっとエジプトに住んでいたほうがいいよ。日本はこの先もっと貧しくなるよ」
と笑って私に言っていましたが、本当にそうでした。ていおうか、政治家がよくへらへら笑ってそんなこと言えたと思います。

「ああ貧しくなったなあ」
 わかりやすかったのがテレビのコマーシャルや街中の看板広告に華がない、見るからに低予算。それからタクシーの空車が多かったことです。

 でもまだ若い女性たちは猫も杓子もブランドバッグを持ち歩いており、激安コスメよりもシャネルやディオールの化粧品が売れているようでした。

 日本での就活は苦労しました。
 まず私はまだバブル景気の余韻があった時に日本を離れていたので、すっかり景気低迷の日本社会の価値観や感覚とズレがありました。
 それに知らずと考え方や表情、仕草(ジェスチャー)がエジプト人のようになっており、つまり日本では全てにおいて「大げさ」。これは非常に嫌われました。

「話す時にそんなに表情を変えるものではないし、芝居かかった話し方も良くない。舌打ちも止めなさい。身振り手振りで喋るのも止めなさい」

 徹底的に何もかも否定されると、萎縮します。すっかり自信もなくなり、ますます就活がうまくいきません。

 実際、日本企業の多くの面接では嫌な思いをしました。どこも面接官が男性でしたが、まずTOEFLのスコア610点を持っていることについて、
「たった610?」
と馬鹿にされました。

「ああTOEFLとTOEICを混同しているな」
 そこで2つの違いを説明し、TOEFL610点はハイスコアですと、説明すると逆にむっとされ、ある企業の面接官にははっきりと
「君ね、面接で口答えしてはいけないよ。君のためにいうが、そのように口答えするなら、日本の社会ではどこも君を採用しないよ」
 ちなみにTOEFL採点方法など今とは違い、当時は530、550あれば非常に高得点と言われており、600点あればアイビーリーグ合格レベルでした。

 また、
「女性に職務経験有無など求めていない。それよりも25歳以下の若い女性をうちは欲しい」
「婚期を逃さないように、帰国したのかな」
等など面接で面と向かって言われたのは、序の口です。

チェコの会社に採用される

 外資系企業の面接では全然違いました。もっと私の本質やスキルを見ようとしてくれ、「ずっと外国にいた人」という色眼鏡で見られることはまるでありませんでした。

 韓国系の企業でもそれは同じでした。応募資格基準から外れていても、
「この人はいいかも」
と思ったらチャンスをくれ、会って話を聞いてくれました。日本企業だけが最初から第一門も閉じていました。

 そうそう、各国大使館にも応募しました。
 しかし採用通知をくれた大使館はいずれも給料や福利厚生が悪く、本当はお金持ちのクウェート大使館が給料がいいということで狙いたかったものの、あいにく募集をしていませんでした。

 イスラエル大使館には初めから応募しませんでした。
なぜなら、イスラエル大使館は前々から「世界で一番危険な大使館」と言われており、爆弾を仕掛けられる可能性が高いから、どこの国でもイスラエル大使館だけはよしたほうがいいというのが定説でした。

 それからアラビア語ができれば、アラビア語の国の大使館どこでもいけるんじゃないかと思われがちですが、決してそうではなく、逆に敬遠されることもありました。

 中東を専門とした貿易会社にも面接に行くと
「ほお、アラビア語を理解され、現地にも知合いが多いんですね」
とむしろ露骨に身構えられました。

 そうそう、ロシアのアエロフロート航空や大使館でも、ロシアを話す日本人をあえて採用しないようにしていたようで、きな臭い言語(!)を学ぶと、逆に「用心」され敬遠されるようでした。

 就活の最中、ハロワ(だったはず)で紹介されたインターポールでの仕事は面白そうだなと思いましたが、派遣でしか入れそうもありませんでした。

「派遣か…」
 当時はそれに非常に抵抗感がありました。
 かといって、日本企業はなかなか年齢の条件がすでに「25歳」オーバーしていたし、外資は派遣か待遇の悪い大使館勤務募集にしか通りません。

 身内および知人の家族経営企業へのコネ入社も考えましたが、バブル崩壊後、その多くが倒産しています。

 就活、、、
 決して高い望みではなかったはずで頑張っているものの、思う通りにいきません。
 でも親は
「何やっているの。早く就職しろ」
と口うるさくやかましい。

 帰国した最初の一週間は親もちやほやしてくれ、毎晩ご馳走がでてきますが、二週目に入るとネチネチグチグチ言われるようになりました。

 そこで
「また外国に出るしかないのかな」

 で、ジャパンタイムズの月曜日版を購入。
 毎週月曜日のジャパンタイムズには求人情報がたくさん掲載されていたからです。外国勤務募集広告も多く掲載されていました。
 この時にチェコでの求人広告を見つけました。

                       つづく

 追記
 エジプト航空の社名を出しましたが、もう大昔のことで日本支社もすでに存在していないようですので、エ◯プト航空だのエジプトの航空会社と書いても隠している意味がないので、そのまま名前を出しました。
 今でも、非常に失礼な態度を取られたという感想は変わりませんが、だけどもそれについてどうこう思うことはありません。
 また、その経験によって自分が面接する側になった時、いかなる面接者であれ、決して不躾で偉そうな態度を取るまいと思うようになり、そういう意味ではいい経験でした。

 ヘッダーの画像は、チェコ在住アーティストのKaoRu IsjDhaさんの絵です✨


吉穂みらいさんについて私が書いた記事をこちらのマガジン↓に追加していただきました。ありがとうございます。


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