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20060420 普遍性と特殊性

 我々人類は、精神の世界では普遍性を追求するのに、物質に対しては特殊性を欲するのは何故か。と天文学者の松井孝典$${^{*1}}$$が書いていた。

 確かに宗教や学問などは、混沌として複雑に思える実際の世界における普遍性を見つけることが目的であり、人々はそれによって納得したい落ち着きたいと考える。人類の精神的な事柄の歴史は普遍性の追求の歴史と言ってもいいような気がする。

 物質に対する欲望はどうか。人々は特殊な物に価値を見出す。普遍的な物に価値を見出すことはない。黄金$${^{*2}}$$やダイヤモンド$${^{*3}}$$は希少性があるから価値があるのであって、路傍の石のように普遍的な物であれば誰も見向きはしない。

 精神世界も物質の認識もどちらも同じ脳の活動であるのにも拘わらず、価値の論点が普遍性と特殊性という全くの対極となっている点が不思議である。何がこの差を作っているのだろうか。

 そうではない。全く同じである。精神世界の価値も物質における価値も人類は「特殊性」にしか見出していない。精神の世界における普遍性の追求というのは、普遍性そのものの追求ではなく、「普遍性であることの証明や説明」の追求である。学問に没頭する人は、対象とする世界の普遍性の証明を追求し、満足する。その証明は今まで誰も成し得なかったことでないと価値がないと見なされる。つまり「特殊性」の追求である。宗教家の目的は民衆の苦悩からの救済であるので、特殊性の追求とは無縁であるはずだが、数々の宗旨宗派が常に発生することを考えると普遍性の追求だけではないような気がしてくる。藝術活動も当然、独創性の追求だから同じだ。

 それでは何故人々は「特殊性」に価値を置くのか。進化の過程で知性が身に付いた時にたまたまそうなったのだろう。「普遍性」に価値を置いても何ら不思議ではない。ただ、ある場合は「特殊性」、他の場合は「普遍性」というのは不自然であると思う。

*1 松井孝典
*2 20010810 金の延べ板
*3 20020321 ダイヤモンド(2)

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