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20050413 字数制限

 当たり前のことであるが、文章における字数制限$${^{*1}}$$というのは他人の都合である。自分の都合ではない。

 文章を書くと言うことは、自己の表現に他ならない。自分を表現するのだから他人の都合は関係ない。自分の都合で全て為される。自分を表現する際に他人の理解も同時に欲しい場合は他人の都合も考えなくてはならないが、これは自分の都合のための「他人の都合の考慮」であって、前提として他人の都合があるわけではない。

 自己の為した表現が多くの他人に「美」と認められれば、それは芸術と呼ばれるようになる。多くの他人が「美」と理解する過程において、初めは一部の人が認めるだけだろう。その一部の人の意識が他の人々に伝搬して、そう理解できる人が更に多くなる。その過程で抽出された表現の特徴などによって形成された様式や形式が「美」の理解を容易にし更に理解者を増やして、その様式や形式の枠内の中で自己表現をしようとする人々も出現してくる。「美」と認められるにはその様式や形式が高度であることが必要だ。高度な様式や形式を満たすには特殊な技巧の駆使が求められる。

 和歌や俳句など定型詩$${^{*2}}$$には字数制限が設けられている。自由律俳句$${^{*3}}$$という字数制限のない俳句もあるが、これは「『字数制限をなくす$${^{*4}}$$』という制限」を設けているとも言える。こういった高度な形式の枠内での自己表現は、芸術である。

 数百字、数千字という字数制限というのは高度な形式と言えるだろうか。言えない。制限の字数が増えればいくらでも調整できる。と思う。つまり数百字、数千字の字数制限という形式の芸術は成り立たない。

 数百字、数千字の字数制限は純粋な他人の都合なのである。字数に制限がないと読むのに時間が掛かって審査がはかどらない$${^{*5}}$$とか、制限しないとサーバ$${^{*6}}$$内のデータがすぐに一杯になってしまうといった他人の都合なのである。

 少し前に読んだ新聞か雑誌に、制限された字数で文章が書ける能力が重要であるかのような論調の文章があった。字数制限は新聞社や雑誌社が記事を掲載する上で重要なだけである。自己表現の前提にはならない。この文章では一体何を読者に伝えようとしていたのか。こういった考えは自分の都合を他人に押しつける、人の立場を理解していない人のものである。一方、他人なのか自分なのか誰の都合か判らなくなって、自己表現にも拘わらず文章が字数制限内で書ける能力が重要と思ってしまうのも滑稽である。

*1 Google 検索: 字数制限
*2 和歌・短歌|日本文化いろは事典
*3 放哉の俳句・自由律俳句
*4 自由律俳句協会 │自由律俳句研究(那須田康之)
*5 Jess : 日本語小論文 評価採点システム
*6 IT用語辞典 e-Words : サーバとは 【server】 ─ 意味・解説

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