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玉虫色

オフィスビルの重い扉を押して彼女は外に出た。歩道へふわりと一段降りる。時計を見ると、待ち合わせまであと10分だった。ゆっくり歩いても間に合うかな、そう思ったときスマートフォンにメッセージが届いた。

『いまどこ?』

ぶっきらぼうな言葉。ざらっとした感覚に彼女はなった。目的地は近くだが、気落ちした。

「移動してます」

『ランチの後、どうしようか』

昼食だけの約束なのに。どういうつもりなんだろうか。波風は立てたくない。

「帰りますよ」

『もっと話したいから、ホテルへ行こう』

彼女は歩くのを止めた。目的地まで目と鼻の先だった。逡巡したが最大限譲歩した返事を送った。

「ランチだけです」

『そんなこと言わないでさ』

男は一向に引きそうになかった。昼食の後は買い物があると言っても、それが終わるまで待つと言って食い下がる。何といえば断れるのか思いあぐねてありのままを言った。これならホテルに行きたいとは言わないだろう。

「あの日だから何もできないわよ」

『じゃあ行かない』

待ち合わせの場所に着いた。それ以後、男からメッセージが届くことはなかった。

男にはSNSで声をかけられた。彼女のコメントに共感したと言ってきた。若い青年らしくパワーがみなぎり面白かったが、話が盛り上がると、会いたい、お茶したい、ランチだけでも、と誘ってきた。既婚者だし、年上の女だし、おばさんの何が楽しいの?と言っても引かなかった。根負けしてランチだけならと受け入れた。

何かを期待していたわけではない。お昼を一緒に食べるのも面白いかなと思っただけ。女というだけでセックスの対象になる。イガイガした気持ちは収まることがなかった。

ストレスフルになり気持ちはネガティブになった。SNSでそのまま呟くのもはばかられる。彼女は男と出会ったアカウントとは違う、別のアカウントを作って事の顛末を綴った。みんな酷い話に同情してくれた。共感してくれる人の多くは不倫経験者だった。そんな入り口から不倫をしている人たちの輪があることを知った。

同じような手口で騙された女性から励まされたり、ヤリたいだけの男性から同様な手口で誘われたり。代わる代わる連絡がきた。不倫している人たちを客観的に見ることは楽しかった。だが、彼女自身がそこに交じり合うことはなかった。

「そんなときに取材させてくださいって言われたんですよ」

思わずコーヒーを吹き出しそうになった。僕の驚いた様子が滑稽で、彼女は愉快そうな顔をしていた。半年前に僕が取材のお願いメッセージを送った。しかし、当時の彼女からは「騙されただけだから」と断られていた。それでも話だけでもとお願いして今回実現した。

「本当に何もなかったんです」

でもね、と話を続ける彼女の目が艶めかしく見えた。その瞳には「あなたのせいで婚外が始まってしまったのよ」そう語りかけられているようだった。

不倫の始まりは彼女が応援しているアーティストからのメッセージだった。以前からヒーリング的な要素を持っているその世界観に魅せられていた。推しからの連絡に心躍った。ダイレクトに話してみるといつも酔っている変わった人だった。この人と一緒に飲んだら楽しそうだ、そんな好奇心からの出会いだった。

年始の大衆居酒屋は仕事始めの人達で賑わっていた。そんな熱気がする中で彼と冷えたビールを飲んだ。面白いぐらいあっという間に彼の大ジョッキが空になる。彼女もそこそこ嗜んでいたが、比べ物にならなかった。たくさん飲んでお店を出るとホテルに誘われた。断る理由なんてある?そう言われて何も言えなかった。

1週間後、イタリアンレストランにランチをしにいった。昼間だから飲まないかと思いきや、彼はワインをボトルで頼んで飲み干した。彼女も気分が良くお酒が進んだ。ただ飲むのが楽しかった。もっと飲もう、人妻と飲むならホテルのほうが安全だと言われた。それもそうだなと思って彼女はついていった。

暖かい風が吹き春を感じさせる日だった。僕の前に座っている彼女は昨年まで不倫はしてはいけないものだという貞操観念を持っていた。しかし年を越えその一線も越えてしまった。何が彼女をそうさせたのか。彼女の何が変わったのか。

年末に夫とセックスをした。彼女から誘った。10年ぶりだった。以前、夫はすぐ達してしまう”速射砲”だった。もしかしたら変わっているかも、そんな望みはすぐに消えた。行為の前後に妻を愛でるようなことがないのも同じだった。性格はいい人なのに。セックスの性格は変えられない。

夫以外とはしてはいけない。だから不倫はしてはいけない。けれど、そよ風に舞い上げられるように経験してしまった。一線を越えた世界と一線を越えない世界。越えてしまった人にしかわからないところに彼女はいる。もう後には戻れない。


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