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宮﨑駿 『君たちはどう生きるか』 レビュー。(ネタバレ度を段階表示で)

2023年7月14日(金)つまり昨日、公開された宮﨑駿作品『君たちはどう生きるか』を見てきたので感想など。

この作品は宣伝が一切されていないため、事前情報がほとんどと言っていいほどありません。事前情報なしの方針で公開された『THE FIRST SLAM DUNK』でさえ映画世界が垣間見える予告動画があったのに、それさえなし。


事前公開されていたのはこのキービジュアルだけ。


「意図があって前情報を出していなかったんだから、自分も何も知らない状態で映画を楽しみたい(でもちょっと感想は知りたい)」

という人のために、このテキストではネタバレ度を段階的に上げていきます。もう「これ以上知りたくない」あるいは「もうこれ以上知りたくねーんだよバーカ」という人(どちらも内容は同じ)は、適度なネタバレ度のところで止めて頂ければと思います。

それでは早速。

ネタバレ度 0% お勧めできるか?

さて、ここからは感想です。
僕は公開初日、朝8時からの初回に、DOLBY CINEMAの劇場で鑑賞しました。初日の初回だけあって、コアファンという感じの方々が多数。アニメージュのTシャツを着ている人が何人かいて、その本気度を感じます。僕はオーバーサイズのシンプルなTシャツとハーフパンツで鑑賞しました(関係ない)。
劇場は8割方埋まっていたと思います。
朝8時だというのに。

まず最初に、人にお勧めするかどうかという結論的なことをいえば、僕は本作をお勧めしますん(どっち?)。……いやお勧めします。
ただ歯切れがわるい。

宮﨑アニメになにを求めているかによって、お勧めできるかどうかが別れる作品です。僕はナウシカを、ラピュタを、もののけ姫を誰に対してもお勧めするけれど、風立ちぬを誰にもお勧めするわけじゃない。なんならハウルもポニョも迷う。それと同じです。その理由は追って説明します(ただしネタバレ度は上がります)。

本作についてはざっくり2つ、「物語」と「映像」についてそれぞれ思うところがありました。むしろこの2つの点を、過去作に比べてはっきりと明確に分けて考えさせられました。
「物語は、こうだった」
「一方で、映像はこうだった」、と。
なんでだろう?

ネタバレ度 10% 映像について

『君たちはどう生きるか』では、これまでの作品と制作方法が変えられたと言われています。これまでは宮﨑駿が「全カットに手を入れる」という駿果汁100%に近い映像でしたが、今回の作画はヱヴァンゲリヲン新劇場版で総作画監督なども務めた本田雄に一任したということです。駿果汁が薄まった。そのことが影響あるかもしれません。

本田雄が総作画監督を務めた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』

これまで物語と作画が同一人物によって制作されていた作品を宮﨑駿作品として見続けていたから、その点に違和感があったのかも知れません。

とはいえ、それが悪いということではありません。むしろ本作の映像表現はとても好きでした。なんといっても、宮﨑駿作品でこれまで見てきた大好きなシーン(それぞれみんなあるよね?)を彷彿とさせるような描写が、各所にちりばめられているのです。
「あ、これラピュタのあのシーンみたい!」
「うわ、もののけ姫に出てきたあの表現!」
というように。たとえるなら超人気楽曲のサビの部分をサンプリングしたマッシュアップみたいな豪華さがある(マッシュアップのお祭り感、楽しいよね。たとえばこんなの↓)。

とくに僕はキービジュアルにでているあのキャラクターに関する動きや表現はどれも大好きでした。

これまでの作品のサビ表現だけでなく、今回新しく見られる新しい表現もあります。それも冒頭から。映画は火事のシーンで始まりますが、その表現に宮﨑アニメファンなら「見たことがない!」という驚きとともに心がときめくのを感じるかと思います。「新しい挑戦を僕たちは見ているんだ!」と。

では物語部分はどうだったか?

宮﨑駿が伝えたい想いや思想がぎゅっと凝縮されている濃厚なものでした。それにもかかわらず、説明が圧倒的に少ない。「なにかとても大事なことを伝えようとしている、でも声が聞こえない、なにを伝えようとしているのかわからない」という印象を少なからぬ人たちが受けるかと思います。

「考えすぎだよ、映画なんてストーリーを楽しむものなんだから」

という人もいるでしょう。

「ストーリーが面白ければ良いし、つまらなければそれまでだ」

でも、この映画のタイトルは
『君たちはどう生きるか』
です。あなたに問いかけています。
なんなら、胸ぐらを掴むような迫力を僕は感じます。すみませんごめんなさい小銭しか持っていません!と謝りたくなるような迫力です。少なくともこの映画は
『ストーリーを楽しんでいってね』
というタイトルではない
わけです(なんだよ宮﨑駿最新作『ストーリーを楽しんで行ってね』って)。

宮﨑駿は82歳であり、ご本人も人生の最終局面の作品の1つだと考えられていると思います。そのクライマックスに『君たちはどう生きるか』と問いかけているわけです。観客はいやがおうにも宮﨑駿が問いかけているもの、伝えようとしているものを受け取ろうという姿勢になるでしょう。

ネタバレ度 30% 宮﨑駿作品の「明快さ」

これまでの宮﨑アニメ映画の多くは、舞台や仕掛け(舞台装置)も華やかで魅力的です。風の谷、空に浮かぶ城、神々の銭湯。そしてどれもひと言で説明できるような明快さがあります。これが宮﨑アニメ映画の魅力の大きなひとつです。

実際に、明快さはタイトルにも現れています。宮﨑アニメ映画のタイトルは、主人公や舞台や仕掛けがタイトルそのままになっているものがほとんどです。

『ルパン三世 カリオストロの城』【1979年】
『風の谷のナウシカ』【1984年】
『天空の城ラピュタ』【1986年】
『となりのトトロ』【1988年】
『魔女の宅急便』【1989年】
『紅の豚』【1992年】
『もののけ姫』【1997年】
『千と千尋の神隠し』【2001年】
『ハウルの動く城』【2004年】
『崖の上のポニョ』【2008年】
『風立ちぬ』【2013年】
『君たちはどう生きるか』【2023年】

風の谷のナウシカ、天空の城ラピュタ、となりのトトロ、紅の豚、魔女の宅急便、もののけ姫、ハウルの動く城、崖の上のポニョ。子供に「これはなんのお話?」ときいても、その答えがタイトルになるようなものばかり。

明快さはキービジュアルも同様です。ポスターに映っているものがそのままタイトルを表し、映画の「プロット(あらすじ)」とも直結しています。とにもかくにも、シンプルでわかりやすい。

シンプルで明快で、わかりやすい。
これが宮﨑アニメ作品の凄まじいところです。
なぜなら、宮﨑アニメ作品では「プロット」の明快さの裏に、重厚で複雑な「テーマ」が存在しているからです。それも、存在していることをきちんと感じさせているのです。「楽しい、でももっとなにかがある」と、見ている大人は思う。
なにも考えずに見ても明快で楽しいし、でも読み解こうと思ったら、どこまでも奥深い。だから子供も、大人も惹きつけられます。こんなことが成立する作品はそうそうありません。それを宮﨑駿は連発しているのです。

ただ、全部がぜんぶ同じというわけではありません。
『風立ちぬ』
はどうでしょう?

『風立ちぬ』は、従来の宮崎駿アニメファンの一部を(あるいはそれ以上を)戸惑わせた作品です。その理由は、上記の流れを追えば明白です。まずタイトルを見ても(なんなら映画を見ても)なんの話だかよく分からない。タイトル=主人公でもなければ、タイトル=舞台装置でもありません。

「どんな映画?」

この作品は子供にも理解できる「明快さ」が、過去の宮﨑作品と比べて著しく弱まっています。タイトルの明快さはもちろん、「プロットの面白さ」の明快さにおいても同様です。プロットが、面白くない(あるいは面白さが、わかりづらい)。

プロットは「堀越二郎が飛行機を作る話」と簡潔に説明できますが、「神々の銭湯でバイトする話」に比べて明快な面白さに欠けます。そのうえで、映画の中にはこれまで以上に重厚なテーマの存在がぷんぷんする。従来の宮﨑作品に慣れてきた観客からすると、プロットとテーマの在り方の変化に戸惑うわけです。

作品のテーマを考えたり、掘り下げたりするには労力が必要です。

作品を読み解く作業は、いってみればスポーツのようなもので、好きな人もいれば面倒な人もいます。どちらが良いとか悪いとか、そいういう話ではありません。ただこのスポーツを好まない人にとっては、わかりやすい面白さが欲しかっただろうし、期待していたものとは違う映画に感じたでしょう。

少なくともこれまでの宮﨑作品では、そのスポーツに参加しなくても最高に楽しめた(なんなら自分でも意識していない心の深い部分では、そのスポーツに触れられていたから楽しかった)。
でも『風立ちぬ』はそうじゃなかった。
だから宮崎アニメに舞台装置のシンプルな面白さを求めていた観客にとっては、物足りない作品になってしまったのだと思います。そして劇場を出るときに思うのです。
なんか、難しかった

今回の『君たちはどう生きるか』も、過去作品と比べると『風立ちぬ』の系譜にある映画でした。

アオサギ

まだ子供である主人公の眞人(マヒト)は、現実世界で、たった一人で問題を抱えています。分かち合う相手はだれもいません。逃げ場も、居場所もない子供です。

その眞人(マヒト)は、物語の途中から異世界に入っていきます。
まるで白ウサギに誘われて不思議の国へ入っていく少女アリスのように、アオサギという不可思議な鳥に導かれて、暗い入口を抜けて眞人は古い塔の中に入っていく。ここは「思いもよらないことがはじまる!」とすごくワクワクする部分です。

物語の文法でいえば、トンネルを潜ったり暗い場所から明るい場所へ出るとき、それは「あの世」や「異世界」へ達することを意味します。古今東西の物語の主人公たちは、暗闇を抜けて異世界にたどり着きます。『ラピュタ』でも竜の巣を抜けて天空の城に到着し、『トトロ』では森のトンネルを抜けトトロの住まいに行き着きました。

『千と千尋の神隠し』でもトンネルを潜って異世界に入り、大橋を渡って八百万の神のお風呂屋さんへと達していました。

「この世」と「あの世」の境界は、古来の日本から「はし」と呼ばれています。

「はし」とは現実世界の「端(はし)」であって、そこからあの世へつづく道を「橋(はし)」と呼ぶ。このあたりは縄文時代の地図における「端」の位置から、現代日本文化を読み解いていく中沢新一の「アースダイバー」にわかりやすく書かれています。縄文文化と関わりの深い宮﨑作品の理解の一助にもなるので、興味がある方におすすめします。

というわけで、眞人は現実世界から異世界へとたどり着きます。
……でも、境界を抜けた先にあるその異世界がいったいなんなのか、『君たちはどう生きるか』では直感的に理解できません。ここが宮﨑アニメの他作品と違う部分です。明快じゃない。いったい行き着いた先がなんなのか分からないまま、物語はずんずん進行していきます。待っていてくれない。だから観客は終始戸惑うことになります。

途中、その塔は「ある日宇宙から突然降ってきた塔」と説明される一方で、その塔は「ここは地獄」とも説明されます。どっちなの? 両方なの? 初見ではうまく理解できない。あるいは納得できない。

ネタバレ度 50% たとえばこんなタイトルだったら?

「ん、どういうこと?」
という数々のクエスチョンマークは解かれないまま、映画は進行していきます。多少のクエスチョンマークは物語をドライブさせますが、直感的に理解できない部分がすこしずつ増えていくと、観客は戸惑い始めます。

コップが水がたまるように「?」の水位が増していって、水がこぼれだしたときに「この映画、わからない」「むつかしい」と観客は感じるようになるわけです。

もしマンガや活字作品なら、自分のペースで物語を進行できるので、考える時間も自由に用意できます。でも映画はどんどん進んでいくので、直感的に理解できない部分はいったん保留されて進行していく。そしてその保留部分が高く積み上げられるほど、見ている側の負担もどんどん重くなっていきます。

アオサギと主の関係は?
セキセイインコ大王一族の生活や目的は?
大叔父様の過去と目的は?
ワラワラ、めちゃかわいいな!(関係ない)

などなど、数々のクエスチョンマークが浮かんで消えないまま、物語が進行して新しいクエスチョンマークがまた浮かんで来る。そして最後まで見ても結局説明はありません。自分で感じて、考えて、その「?」を解いていく必要があるわけです。でも「?」の多さの割にヒントがすくないために、「どういうこと?」「どういうこと?」「どういうこと?」「なるほど!すげー!」の最後の部分を自分で生み出すことが出来ないまま、劇場を後にすることになります。

さて。たとえば、だけれど。

もしこの映画が『不思議の塔の眞人』というタイトルであれば(そのタイトルに魅力があるかどうかは別として)、どうだっただろう? これまでのようにタイトル=主人公、タイトル=舞台として明快にする。

その場合、観客は映画を見ながらここまで戸惑うことはなかったかもしれません。「その塔は、不思議な塔」ということで一旦納得してしまうからです。宇宙から飛来した地獄。たしかに不思議な塔だ、と。そこで起こる数々の不思議なできごとも「不思議な塔のできごと」として消化できるでしょう。魔法の塔でもいいかもしれない。

しかし、この映画のタイトルは『君たちはどう生きるか』です。前述したとおり、監督はこの映画を通して具体的に観客に強く何かを問いかけている。だから観客は意識的に(あるいは無意識的に)その問いかけが何かを、伝えようとしていることが何かを感じ取ろうとします。頭を使いながら映画を追って行くことになります。監督の「伝えたい」想いの強さが、ストーリーから説明を省いていき、これまでの作品のような「誰でも楽しめる」ための明快さが失われたように思えます。

ネタバレ度 70% ストーリーに補助線を引く

では、この難解な物語は結局の所どんなお話だったのでしょう?

事前情報が一切なかったこの作品ですが、公開二日目にしてすでにウィキペディアにはがっつりプロットが掲載されています(おいおいおい)。もしご興味ある方はそちらを確認してください。もっとも、このあらすじの中で書かれている登場人物たちの心の動きは、あらすじを執筆した人の主観であって、僕自身は別の感じ方をしているところがあります。

さて、この物語を読み解く補助線として、比較神話論で語られる物語の類型「英雄冒険譚を使うと、全容が見えやすくなります。この英雄冒険譚とは、極端に単純化して言うと、①主人公が何かしらの依頼を受けて旅立ち、②異界での経験によって成長し、③ふるさとへ英雄として戻ってくるというストーリーパターンです。

この主人公の成長を知るには、まずは①の現状を知る必要があります。

ここでは物語に重要な要点だけ振り返っていきます。


映画『君たちはどう生きるか』は、母親を火事で失った少年・眞人(マヒト)が主人公です。序盤では眞人はほとんど口を開かない寡黙な少年です。でも目つきは精悍で、心の内に秘めているものがあるのを感じさせます。

父は戦時需要で商売が大いに繁盛している経営者。戦闘機の製造も行っているところが示唆されています。そんな父と眞人の間には、現代の親子のような親密さは感じられません。強大で圧倒的な父権の下で生きている少年であることがうかがえます。

母の実家は地方で何代もつづく名家でした。父は妻を失った後、妻と顔のよく似た妹(つまり眞人の叔母)ナツコと再婚することになります。戦時中でもあるため父は眞人を連れて妻の実家の大屋敷に疎開することにします。

初めて会ったナツコは父の子供を孕んでいて、心から妊娠を喜んでいるようにみえます。そんなナツコと、家の使用人の7人の老女たちはまるで白雪姫と7人のこびとのようであり、また七福神のようでもあります。彼女たち(全員が女性)は、寡黙な眞人にはやく屋敷での生活に慣れてもらうように心を砕いて接しています。

一方で、眞人は学校では馴染めません。
帰り道には他の生徒たちと殴り合いの喧嘩になります。セリフはでてきませんが、おそらく戦争で利益を上げている父親の仕事についてなにか言われたのだろうということは推察できます。一対多の喧嘩でボロボロになった帰り道、何を思ったか眞人は拳ほどもある大きな石を拾い上げ、自分のこめかみに打ち付けて自傷し、血を流しながら屋敷に帰っていきます。屋敷は大騒ぎとなり、眞人はしばらくのあいだ屋敷で静養することになりました。

なぜ自傷したのか?
映画では具体的な説明はありません。ここは様々な解釈があるところだと思います。ただ、この自傷に対して説明がないのは、端的に「説明できない」からだと僕は思っています。同級生への怒りであり、父への怒りであり、世界への怒りであり、それらに対処できない自分への怒りでもある。でもその実態が分からない。世界の不条理に飲み込まれないために打ち込んだ、自分への深い杭のようにも感じられます。

ところで、眞人が静養しているこの大屋敷の敷地には、不思議な場所や歴史がありました。

  • かつて母の大叔父が使っていた塔があること

  • その塔の入口は塞がれていること。

  • かつて母が少女時代に神隠しに遭っていたこと。子供だった母はそのまま1年近く姿を見せなかったが、ある日とつぜん姿を消したときと同じ服のまま戻ってきたこと。

  • そして、あきらかに知性を宿し、意図を持って眞人に接近する鳥(アオサギ)がいること。アオサギは眞人に「待っていますよ」と声をかけ、眞人が塔にやってくることを待っている。

そんななか、ナツコの悪阻がひどくなり寝込むようになりました。父や使用人たちが心配しているなか、様態の悪い彼女は部屋から出てきません。そしてある日、ナツコは身重のまま屋敷から姿を消してしまいます。屋敷は大騒ぎです。
しかし、眞人はナツコが森の中に入っていく姿を見ていました。
眞人は彼女を探し出すべく、使用人の老女の一人・キリコと共に、森に入って塔へと進んでいきます。アオサギが誘っていたあの不思議な塔の中へ。


……これが異界に入る前までの眞人です。

塔の中では様々な出来事が起きますが、ある一点をおさえると、物語の骨格を捕らえやすくなります。それは塔の「時の回廊」の機能です。

この時の回廊にはいくつもの扉があって、その扉は様々な時代に繋がっています。ある扉を開けると現代世界に、ある扉を開けると30年前の世界に。いわば「どこでもドア」の時間版であり、そんな扉が無限に並んでいるわけです。

そして、この塔の中は自体は全ての時間が1つになっています。時間軸の交差点である塔内は、時間の制約から開放されていて、この塔の中で過ごした時間は外部時間に関係ありません。

この塔の中に入った人間は「眞人」「母(ヒミ/ヒサコ)」「ナツコ」「キリコ」「大叔父」の5人。彼らはこの異界の中でそれぞれの経験を経て成長し、そして「眞人」「母」「ナツコ」「キリコ」の4人は現実世界へと戻っていく。

母の神隠しはこの「時の回廊」で説明がつきます。
幼いとき、この塔へやってきた母は、この塔のなかで過ごしてから(それが神隠し期間)、やがて現実世界へと出て行ったわけです。そして大人になって眞人の父と結婚し、眞人を出産して、やがて火事で亡くなっていく。

ナツコを追ってきた眞人はこの塔の中で母親と出会いました。
最初はそうと知らずに冒険を共にします。二人は塔の中ではほぼ同い年の少年少女でした。塔が崩れる直前、眞人は母に「僕と同じ時代に戻ろう! そうしないと母さんはいずれ火事で死んでしまう!」と告げます。しかし母は「眞人のお母さんになるなんて、なんて素敵な体験なの」(セリフは微妙に違うかも)と笑顔を見せて、自分の人生の最期が分かっていながら元いた時間軸の扉を開けて出て行きます。

時間が過去から未来へと一方向に直線的に進んでいくのではなく、前後左右に自由に進んでいく、というモチーフは様々な物語で使われいます。

『君たちはどう生きるか』の舞台装置を見て、真っ先に思い浮かぶのはテッド・チャンの傑作短編『あなたの人生の物語(1998)』です。この小説では、宇宙人との交流のなかで主人公が「未来の記憶を思い出す」という特殊な体験をしながら、宇宙人の来訪の目的を探っていきます。
つまり「未来」が「過去」に影響を与えるわけです。
もちろんターミネーターもBTTFも同様かもしれませんが、過去に与える影響の質が『君たちはどう生きるか』と『あなたの人生の物語』ではほぼ同じなのです。

ちなみにこの小説は2016年に『メッセージ』という形で映画化されました(めちゃ面白いです)。

『あなたの人生の物語』/『メッセージ』の主人公は母親です。
不幸な結末を知っていながら、結末に到るまでの素晴らしい体験を祝福するために、その不幸な結末の人生を選ぶ、という行動は『君たちはどう生きるか』の母の行動とまったく同じです。

結末ではなく、そこにいたる体験を尊ぶという生き方。
これが『君たちはどう生きるか』という問いに対する母の答えでした。

同様に、眞人もまた現実世界へ戻る選択をしました。
彼は大叔父様の後を継いで、異世界を統べる神とも呼べる地位に就くことが望まれていました。しかし、彼は新しい母と未来の弟/妹を現実世界に連れて帰る決断をします。その現実世界とは大叔父様いわく「やがて火に包まれることが明らかな世界」であり、眞人自身も自傷することでしか抗えなかった凶悪な世界です。そこに戻るほどの覚悟を、異世界での経験で眞人は得たのです。

「生きる覚悟」

宮崎作品で繰り返し問われているテーマです。『君たちはどう生きるか』では、眞人は生きる覚悟を持って現実世界へナツコを連れていきます。

ところで、ナツコもまた大叔父の血を引いており、彼女の子供は神の血を引く次期神の最有力候補でした。中世日本では出産と死の瞬間には穢れが伴うと考えられていました。故に、ナツコは塔の中に誘われて、他者禁制の厳重な環境のなかで次の神の出産させられることになっていたのでしょう。セキセイインコたちが眞人のナツコとの面会を「タブーを犯した!」と騒いでいたのはそのせいです。

しかし眞人が疎開してきたことで、神位継承権の順位が変わり、大叔父は眞人に神の座を継がせようとします。大叔父の力もまもなく尽きて、このままだと異世界が崩れ落ちるため、大叔父様も焦っていました。しかし眞人はそれを断固拒否したというわけです。

英雄冒険譚では、冒険の最終局面で父権の象徴(あるいは父そのもの)と対峙してそれを超越するか、あるいは一体化して成長を遂げるというモチーフがあります。『君たちはどう生きるか』の父権の象徴は現実世界の父であると同時に、大叔父様がそれに当たります。この場合は大叔父様の意思を超越して、自らの意思で異世界を崩して眞人は現実世界へと戻っていきます。

ネタバレ度 85% なんの象徴だったのか

じゃあ、あの不思議な塔は、大叔父様の作っていた世界は、なんの象徴だったのか? それに対する解答もまた映画では与えられていません(とにかく、なんにも説明してくれない)。

ただ、ぎりぎり察する程度のヒントはあります。

たとえば、眞人が塔の中に入ってから、たどり着いた島があります。その島には庭のような草原があり、庭を区切るように門が立っています。その門にはこう記されていました。

「我ヲ學ブ者ハ死ス」

読んだことがある人なら分かるかも知れませんが、この門のモチーフは明らかにダンテの『神曲』の地獄篇(1304)にあります。

ダンテの地獄篇では「地獄の門」をくぐって地獄界の庭へと至るわけですが、その門には「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」という、あらゆる中2病罹患者が泣きながら悶絶するようなシビれる一文が刻まれています。

ダンテ『神曲』地獄篇

塔内の階層の複雑さは、まさに地獄篇で描かれる地獄のような複雑さ。なによりも、劇中でキリコは塔のなかを「地獄」と呼んでいました。

ただし、それ以上の説明はありません。

映画『君たちはどう生きるか』内ではほとんど説明のないこの塔(地獄)の構造や、そこで起こっている出来事が何を象徴しているのか、その象徴によって作家宮﨑駿が何を伝えたいのかを知るには、一度の鑑賞では足りません。この映画はあまりに情報密度が高すぎて、すべてを抱えたまま劇場を出ることはできないからです(つまり「ネタバレ100%」というのはまずありえません)。

そのため、作品を理解するには何度も繰り返し作品に触れる必要があります。

さらに、もし「読み解けた!」と思っても、もう一度見てみたらまったく違う理解が生まれるかもしれません。だから何度も触れて、何度も考えて味わうような作品といえます。

ダンテの『神曲』が発表された約700年後、フランスのパリで天才彫刻家が地獄編にインスパイアされて巨大なブロンズ像を制作しました。言わずと知れたオーギュスト・ロダンの『地獄の門』です。


オーギュスト・ロダン『地獄の門』

その門の上には、別作品として切り出され、後に『考える人』と名付けられることになる男の姿があります。


考えてる
めっちゃ考えてる

前屈みになって膝に手をつき、顎を手に載せて、とにかく何かを深々と考えている人。ブロンズ像ができあがってから百年以上、考えに考え続けている人。

僕らもまた、眞人の入った塔についてこれからも考え、『君たちはどう生きるか』の問いと答えについて考え続けるしかないのかもしれません。

でも、答えなんてあるんだろうか?

正直、そんなもんありません。

『考える人』だって、100年経った今も何を考えているのか、ただ何かを見つめているのか、専門家たちは意見が分かれるほどです。しかしロダンは肉体で思想や魂を表現していた作家でした。彼にとって形(肉体)こそが重要であって、その内側にあるものはわざわざ言語化する必要はなかった(肉体で語っていた)のです。

同じ事が『君たちはどう生きるか』にも言えると思います。
映画『君たちはどう生きるのか』について、答えなんかない。ただ答えを探す姿勢そのものに意味がある。

そう考えると、「むつかしい」「わからない」と腑に落ちなかった気持ちも少しは落ち着くかも知れません。


とまぁ、これが僕の初見の感想ならびに解説となります。もう一度見たら、もう少し塔についての理解が深まるかも知れないとも思っています。

『君たちはどう生きるか』には今回取り上げなかったキーポイントが他にもまだまだたくさんあります。実際に吉野源三郎の小説『君たちはどう生きるか』も出てくるし、ページが映っていたので眞人がどこで泣いていたかも分かるはずです(どのページだか一瞬だったのでわからなかったけれど)。

ワラワラが新たな魂となって受肉する仕組みも、深く考察できるポイントに思えます。書き割りのような帆船たち、老女たちの人形のお守りについても、深掘りしたい気持ちもあります。

その当たりは他の考察ブログやYouTubeなども見つつ、僕も引き続き読み解きを楽しんで行きたいと思います。

そしてもしまだ映画を見ていないままここまで読み進んでしまった人が「よし、映画を見てみようかな」とお持って頂けたら嬉しく思います。

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