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小説『避暑地にて』

 徴兵忌避で自殺した画学生が軽井沢の別荘地に化けて出る。という内容の映画を撮るから、主人公の恋人役をやってくれと言われて二つ返事で引き受けた。部屋のエアコンが壊れた夏休みのことだった。十日の撮影期間中、軽井沢で優雅に過ごせるとくれば断る理由はない。まかないつきでギャラまで出るという。
「ラブシーンはあるか」と一応聞くと「ない」と女は言った。ないらしい。
 女は放送学科の二年生で、自費で映画を撮り、秋の学園祭で上映するのだそうだ。
 僕が女と出会ったのは丁度一年前の夏、館山で行われた水泳合宿でのことだった。水泳合宿とは、通常は半期みっちり受講して手にする体育の単位を、二週間ビーチでバカンスをして取得しようという、バブル期の名残のような授業である。
 水泳合宿の期間中、毎晩気絶するまで飲み続けていた為その夏の二週間に起きた出会いや別れやその他色々についてはほとんど何も覚えていない。覚えていないが女が館山で一緒だったと言うのだからきっと一緒だったのだろう。どこまで一緒になったのかは定かではない。
「主人公は誰がやる」と僕は女に聞いた。
「マリエちゃんよ」と女は言った。
 マリエは写真学科の同級でゼミまで一緒だった。なるほど素材はなかなか悪くないのだが、その発言や行動から察するに頭の中に相当なカオスを放し飼いにしているようだった。ワンピースを着ている日は必ずといって良い程パンツが見えたし、時折鼻くそをほじっている姿を目にしたし、朝からワンカップ片手に学バスを待っていたかと思えば、突然大量の鼻血を出して学バスを止めたりした。
 これまで相当数の男子学生が彼女に近付き、すぐに光の速さで離れていった。遠くから様子を眺める分にはなかなか飽きないキャラクターではある。しかし。
「残念だがこの話、なかったことにしてくれ」
「どうして、マリエちゃん可愛いじゃない」女は言った。
「外身ではない、君は彼女を知らないのだ。あんなのと十日も寝食を共にしたらこっちの身が持たない」
「三万だすわ」
「やります」
 というわけで蝉の死骸がアスファルトに散らばり始めた八月の終わり、僕は女とマリエと撮影クルーのメンズと共にワンボックスカーの固いシートの上に収まっていた。運転を担当した照明コースの男は出合い端に「どうして照明なんかを学ぼうと思ったの」という率直すぎる質問をマリエから浴びせられたせいか、涙でセンターラインが見えなくなったらしく、これでもかというほど荒っぽい運転をした。おかげで僕はサービスエリアで三回吐いたが、マリエはひたすら缶ビールを飲んでいた。
「着いたら早速キスシーンの撮影だそうだ。残念だな。きっと酸っぱい」と僕は言った。
「構わないわ」とマリエは言った。
 女の親が所有する別荘に着く直前、マリエはまたも大量の鼻血を出した。
「残念ね。きっと鉄の味がするわ」と、彼女は鼻に目一杯ティッシュを突っ込んだまま言った。
「キスシーンなんてない」
 知っているわと彼女は言った。

 緑がこんなにも何もかもを埋め尽くすのかというほど鬱蒼とした木々の中、山肌にへばりつくようにしてその別荘は建てられていた。周辺に他の建物はなく、最寄りのコンビニまで車でゆうに半時間はかかる。女の家族も、もう何年も使っていなかったそうだ。
「やっぱりね、廃墟の撮影にぴったり」と女は言った。
 なるほど建物のステータスは猛烈な勢いで廃墟サイドに振れていた。
「ここに十日も暮らすのか」
「大丈夫よ、ライフラインは全部つないでもらったし、いざとなれば暖炉もあるの。本物の暖炉よ」
 夏山を舐めるなと何かの本で読んだのであえて反論はしないでおいた。
「ここにいる間、私のことは監督と呼んで」と女は言った。

 自称監督にはおよそ監督に必要と思われる能力が欠如していた。当然だ。能力があるのなら彼女は映画学科の監督コースにいるはずである。
 そんな監督が手がけた脚本もなかなかの珍品であり、日を追うごとにスタッフの目からみるみる情熱が失われていった。むしろこの状況を映画にした方が面白かったにちがいない。
 撮影七日目、監督の気まぐれで予定になかったシーンが追加された。雑草が生い茂り、庭と呼ぶにはいささか傾斜のキツすぎる草むらで主人公の恋人、すなわち僕が、落ちていたサッカーボールで華麗なリフティングを披露する。というシーンである。
 小道具のサッカーボールは、何年も物置の中に放置されていたものらしく、空気がほとんど抜けてしまっていた。
「こんなボールでリフティングをしろなんて冗談じゃない」僕はブラジルの子供ではないし、例えばベストコンディションの公式球であっても、リフティングなど三回続けば良い方だ。
「こんなシーンは台本にない」
「いいのよ、主人公の恋人は元サッカー部なの。プロを目指していたけど怪我で挫折したの。ここは彼がもう一度何かを始める暗示のシーンなの」
「暗示かなにか知らないが、僕はリフティングなんかできない」
「監督に口答えしないで、私が出来ると言ったら出来るの、元サッカー部がリフティングも出来ないわけないでしょう。出来るの、彼には出来るのよ!」
 監督はヒステリーを起こした。
 元来温厚な性格の僕はちょっとやそっとでは声を荒げたりはしない。荒げたりはしないが押さえきれない時もある。埃だらけの廃墟同然の建物で即席麺ばかり食わされて軟禁されているような時がそれだ。洗濯機が壊れていたとかでお気に入りのTシャツをボロボロにされ、深夜まで終わりの見えない撮影に付き合わされ、早朝に叩き起こされる日々が一週間続いた挙げ句、理不尽な要求を突きつけられた時なんかにはわりと素直に怒りを表現する。
 僕は足もとに転がる凹んだサッカーボールを思い切り蹴り飛ばした。サッカーボールはおよそサッカーボールを蹴ったときには耳にできない珍妙な音と共に飛んでいき、庭の端でワンバウンドしてそのまま斜面を転げ落ちていった。
 監督が「あっ」と声を上げ、照明スタッフの粗暴ドライバーが斜面へ駆けていった。覗き込んだ顔を上げ、彼がこちらに向き直って首を横に振って見せた直後、唐突にマリエが叫んだ。
「今日の撮影は中止!」
 皆が彼女の顔を見た。マリエはまた鼻血を出していた。

 その晩、演者用にあてがわれた四畳半の個室でゴロゴロしているとマリエがやってきた。
「飲む?」
 見ると両手に一本ずつスーパードライの缶を持っている。
「酒なんかどこで?」
 監督は別荘滞在中の飲酒を固く禁じていた。
「スーツケースに入れて持ち込んだの」と彼女は言った。なんだか禁酒法時代の悪巧みに加担しているような気分だった。
「いただきます」
「お邪魔していい?」
 マリエは僕がプルトップを開ける間に自分の分を飲み干してしまっていた。仕方なく僕たちは一本のスーパードライを回し飲みしながら話しをした。
「あなた、結構気が短いのね」
「君こそ、鼻血が出るくらい怒ってたじゃないか」
「病気なのよ」
 彼女がビールを飲み下す音がくっきりと聴こえた。
「しかし、監督はだめだな。台本もだめだ。君はなんでこの役をうけたの?」
「あなただって聞いたから」
 今度は僕の喉が鳴る番だった。
「ずっと見てたのよ。バス停でも、バスの中でも、暗室でも」
「目がいいんだな」
 僕たちはそれから紆余曲折あって予定されていないシーンのリハーサルをした。なるほど確かに血の味がした。

 翌朝、日の出より早く僕たちは別荘の周囲の林道を散歩した。近くの火山が数十年ぶりに噴煙を上げたとかで、木々の葉も雑草も敷石も何もかもが、薄く灰を被っていた。
 少しずつ濃度を変えていく空と対照的に、地面にあるものは一様に色合いをなくしていた。
「ねえ、私たちが死んだ後、私たちの魂はどこに行くんだと思う?」彼女の声はすこし重たくて少し疲れているようだった。
「悪いことをした魂はディズニーランドの地下で奴隷のように働かされるんだ」
「なにそれ? じゃあ良いことをしたのは?」
「そんな奴はいない」
 マリエが何か言おうとした時、背後で枝の折れる音がした。次の瞬間、僕たちのすぐ後ろから滑るように一つの茶色い影があらわれ、波がうねるようなしなやかな動きで葉擦れの音だけを残して前方の叢へ吸い込まれるように消えた。
 僕たちは立ち止まって影の消えた木々の間を眺めていた。
「ニホンカモシカだ! 天然記念物!」と彼女は言った。
「やっぱり、目がいいんだな」と僕は言った。

「あのゆうれいの魂はディズニーランド行きね」マリエは撮影の最終日、画学生の霊が成仏するシーンを撮り終えてすぐ僕に耳打ちした。

 照明係の乱暴な運転で新宿まで送ってもらい、そこから西武線で所沢の自宅へ帰った。ようやく部屋に辿り着いてから僕はエアコンが壊れていたことを思い出した。気の利いたことにガスまで止まっていた。
 仕方なく水のシャワーを浴び、ベランダに十日間放置されてごわごわになったトランクスをはいた。
 携帯を見るとマリエからメールが届いていた。

 死んだあと魂はね、きっと南の島にいくのよ。カラー暗室の通路を通って。

 夏休みが明けてすぐ、僕はマリエが大学を辞めていたことを知った。病気の療養の為らしいよ、と女たちが噂するのを耳にした。
 その後何度か、彼女にメールを送ったが返信はなかった。

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