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去年の雪(江國 香織)を読む

江國香織さんの小説は、登場人物が多ければ多いほど素敵だ、と思っている。生活の中のふとした瞬間を繊細に描きだすことに異様に長けているので、登場人物が多ければ多いほど、描写にバリエーションが生まれて物語が豊かになっていく気がするのだ。

なまなかな筆力では薄っぺらくなってしまいそうな群像劇を、こんなに分厚い――ページ数の話ではなく――小説に仕立てるなんて、あの人の身体の中にはいったい何人分の人生が詰まっているのだろう、と不思議に思う。「薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木」や、「抱擁、あるいはライスには塩を」や、「ひとりでカラカサさしてゆく」なんかを読むたびに。

だから文庫本になった「去年の雪」の裏表紙にかいてあったあらすじを読んだときは、快哉を叫びたくなった。100人を超える人々の日常! なんと、まあ。

表紙を開いてから物語が終わるまでずっと、様々な人物の日常が、3ページほどの描写を区切りにめまぐるしく切り替わっていく。何度か登場する人物もいれば、二度と現れない人物もいる(おそらく。あまりに登場人物が多いので自信はないけれど)。
9ページ目でもう心を掴まれた。あの江國香織が「インスタグラム」に言及している! スマートフォンもお持ちでないように思えるのに(褒め言葉)。

インスタもスマホもある現代から、妻問い婚が行われている数百年前の昔まで、物語は自在に行き来する。読む人の意識が置いてけぼりになりそうなくらい、自由に、脈絡なく。

そして読み進めていくと、その描写の断片が少しずつ、繋がりを持ち始めていくことに気づくのだけれど、特筆すべきはそのつながりがあってなくても特段彼らの人生に影響を及ぼさない、本当にささやかなものだということだと思う。

こういう、ばらばらの人生を歩んでいると思っていた複数の人物が実は繋がりを持っている、という本を読むと私は真っ先に伊坂幸太郎の「ラッシュライフ」を思い出すのだけれど、この類の書籍ではそのつながりが登場人物の行動や考え方、人生に大きな影響をもたらすことが多いように感じるし、正直に言うと「去年の雪」にも初めはそのような展開を期待していた。けれど読み進めていくうちに、そんな伏線はなさそうだぞ、とだんだん察していくことになる。

彼らのつながりは、伏線というにはあまりにかそけく、はかなげだ。隣家の住民同士として会話を交わすといった現実的なものもあれば、自分や恋人の住む家が突然立ち消えている、とか、聞こえるはずのない声が突然聞こえる、とかいうような、白昼夢じみた不可思議な現象として立ち現れることもある。いずれにしても、その突然の邂逅は、彼らの生活に何ら影響を及ぼさないことがほとんどだ。ありふれた出来事として受け流されるか、すこし不思議な体験として仲間内で語られた後は、何事もなかったかのように日常が戻ってくる。
それなのに、読んでいる者にとってはそのエッセンスが、魚の小骨のように胸に引っかかる。あるときはそっけないキャラメルの包み紙、あるいは赤いペンキを羽根にくっつけた賢しげなからす。

***

この物語に、主人公はいないように見える。あまりにつぎつぎ場面が入れ替わるので、なかなか登場人物に感情移入する暇もない。けれど読み進めていくうちにある特定の属性を持つ人々の視点にだんだん自分が寄って行っている、というふうに気づいた瞬間があって、それが誰かと言うと、死者たちなのだった。

物語のそこかしこで彼らは現れる。ある者は長い間苦しめられていた病から解放されたことを喜び、ある者は状況からなんとなく自身の死を悟って呆然とし、ある者はもう自分がどういう存在なのかも忘れて、いずれにせよ忽然と現れ、景色や空気を楽しんだり、犬や銅像といったものに寄り添ったり、ただただ漂っていたり、する。
ある死んだ男が(彼らが、幽霊や亡霊というにはあまりにこだわりがなく無頓着な様子なのでこういう表現になる)「出現」した、という描写を読んだとき、私はギュスターヴ・モローの有名な絵画を思い出したのだけれど、この話を読んで脳裏に浮かぶ彼らの姿は正にあんな感じだ。唐突に、自然現象か集団幻想のように、忽然と現れて生者を眺めている。

文字通りこの世になんのしがらみもなくなった彼らの目から見た世界の風通しのよさときたら、今すぐ「そこ」に行きたくなるほどだ。私もその尻馬に乗って、世界を覗き見る。かろやかに、自由に、無責任に。
けれどその代償として、覗き見たある人の人物像やそこで起きる出来事がどんなに興味をそそられるものだったとしても、その結末を知ることはできない。生者の確固たる営みに比べて、死者ができることはあまりに少ないのだ。電車の窓から見える風景があっという間に後ろへ過ぎ去っていくように、飲食店の窓から見える通行人が次々と歩き去っていくように、100人を超える人々の人生の断片が目の前をただ流れていく。

そして唐突に、ページが尽きる。なんのクライマックスも、カタストロフィも示さずに。

だからなのか、余韻は長い。本を閉じた後も、物語は終わっていない、と感じる。
私の場合、読み終わったときに思い浮かんだのは広場だ。そこにはたぶん噴水と銅像とベンチがあって、たくさんの人々がくつろいでいる。心地よい風と柔らかな光。生者のものとも死者のものともつかない気配とささやきが空間を満たす。

最後の方で描写された、ある死者たちに影響されているのだと思う。亡くなってから長い時間が経ち、自分の名前もかつて人間であったことも忘れた彼らは、信じられないほど純粋に世界を味わっている。その数ページを読んだときに感じた幸福感と少しの寄る辺なさこそが、この物語の本質のように思えた。

緻密な群像劇を期待していると肩透かしを食うこともありそうだけれど、今まで経験したことのない読後感を味わえる、素敵な本だと思う。
そうそう、この本を読む直前に「旅ドロップ」を読み返していたのだけれど、そのなかに出てきた旅先で赤い鼻緒の下駄を買う、というエピソードをなぞった描写が出て来て、デジャブのような感覚に陥った。ほかにも短い描写のはしばしに、今まで読んだ江國さんのエッセイにあるエピソードが出てきて妙に嬉しい気持ちに。
何人分の人生がその身体の中に、なんて思っていたけれど、ひとり分の人生を大切に生きているからこそ、書ける話なのかもしれない。

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