見出し画像

忙しい人のための哲学「わたし」とはなにか? (デカルト・仏教編)

【自己紹介】

主に中央公論社の『世界の名著』シリーズから得た哲学や宗教についての知識を、そういった古典を読む暇のない人々に向けてわかりやすく解説していきます。

画像1

【概要】

デカルトの「われ思う、故にわれあり」という言葉は有名ですが、
1600年頃のヨーロッパに生きたデカルトなどの哲学者たちは、
「"わたし"とはなんなのか」
「どこにあるのか」
「本当に存在するのか」
といった疑問に真正面からぶつかっていました。

それは彼らの生きた時代が、
・重力の存在が明らかになり始める
・地動説が受け入れられ始める
・カトリック教会の権力が弱まる
といった、それまでの常識を覆すような出来事が起こった時代だったことと関係しているのだと思います。

現代なら「"わたし"とはなにか?」と聞かれれば、
「脳・身体内の信号のやりとりで生じる"意識"というメカニズム」といった回答をするのが主流ではないかと思います。
でもデカルトたちの時代には、脳内の信号を細かく観測できる機械もなく、そもそもまだ電球すら発明されていない時代です。

そんな中でもその時代の人々は、少ない材料を組み合わせて「"わたし"とはなにか」を解明しようとしました。
彼らがどんなことを考えていたのか、どんな風に間違って、どんな風に正解を導き出したのか、その過程をデカルトの思想を軸に解説していきたいと思います。

画像2

【"わたし"とはなにか?】 (中世以前)

デカルトの考え方は当時にしては革新的なものでした。
なのでその前に、1600年以前の人々がどんなことを考えていたかを軽く振り返っておこうと思います。

まず当時、ダーウィンの進化論なんてものは微塵も存在せず、
「人間は他の動物とは違って、神々に近い特別な存在なんだ」という考えが主流でした。

確かにヒトには、
・言葉を使って喋ったり字を書いたりできる
・物事を深く考えたりやりたいことを我慢したりできる
といった動物とは明らかに違う行動が見られます。

それにギリシャや日本など色々な国の神話で「この世界をつくった神々はヒトのかたちをしているんだ」と考えられてきました。
ただキリスト教は例外で、神様に姿かたちはなく、イエス・キリストは神がヒトの姿を借りたようなものだと考えられていましたが。

なんにせよ、ヒトが持つ「言葉や意志」という能力は、神様のような存在から授けられた特別なものなのだと考えられていました。
「動物や植物はそれぞれ色んな姿でつくられたけど、ヒトだけが神様に似た姿や能力でつくられたのだ」といった考え方です。

画像3

【肉体 = 機械である / Soul = 機械ではない】 (デカルトの時代)

デカルトなど1600年代の人々の考えはこれに近からず遠からずといった感じです。
ただ彼らが革新的だったのは、動物やヒトの肉体というのは、神様が不思議な力で命を与え動かしているのではなく、機械のように物理学的に説明ができるものだと考えたところです。

この頃というのは、ガリレオ・ガリレイやニュートンなど物理学の走りとなる人々が活躍した時代でもあります。
デカルトも実は数学・物理学者としての書物をたくさん残しています、きっとその当時ようやくかたちになってきた理系の考え方で世の中を捉えていたのでしょう。

たとえばデカルトは、
・心臓が血液を取り込んだり送り出したりする働き
・神経に信号が伝達されて筋肉が膨張・収縮することで手足が動く
といった現象を物理学的に説明しています。
つまり動物などの生命というのは、パーツの組み合わせで動く機械のようなもので、そこに不思議な"生命の源"みたいなものがあるわけではないのだという考え方です。

ただ、ヒトの場合はちょっと違うのだとデカルトは言います。
「ヒトが考える・想像するといった行為は機械では再現できない」と断言しているのです。
動物などの単純な生命とは違って、ヒトには"Soul"があり、それによって考えたり想像したりすることができるのだと、そう考えていたのです。

画像4

【日本の"わたし"とヨーロッパの"わたし"】

こういった考え方は"魂"に似てると思いませんか?僕は思いました。
そこで最初は、この"Soul"を魂と同じものとしてイメージしながら読んでいきました。
しかしそうやって読んでいくと、どうしてもわけがわからない部分が出てきます。

そこで"Soul"というものは、魂とはまったく別物の、ヨーロッパ独特のものだと考え直すことにしたら、読めるようになりました。
これについては前回の記事で書いているので、ご参照ください。

大切なポイントは、
・肉体 = 機械のようなもの
・しかし肉体だけでは「考える・想像する」ことはできない
・それをするためには"Soul"が必要

という考え方が1600年頃のデカルトなどの中にあり、
その伝統が「わたし」をどう捉えるかに繋がっているということです。

ではこの"Soul"は実際にどのような働きをしていて、肉体とどのような関係にあると考えられたのでしょうか。

……と、そこに移る前に、一度ヨーロッパを離れ、アジア圏・日本において「わたし」がどんなものとして考えられてきたのかを軽く振り返ろうと思います。

――――――――――――

《日本の"わたし"》
僕らの地域で古来より「わたし」について考えていたのは、なんといってもインド発の仏教徒たちです。
仏教の開祖とされるお釈迦さま、つまりインドのゴータマ・シッダールタがだいたいBC500年頃に生きていたとされているので、ヨーロッパでいうソクラテス・プラトンとだいたい同じ時期です。

仏教徒たちもやはり、ソクラテス・プラトンと同様に「肉体が生じる前や、滅びたあとにも、"わたし"という存在は残るはずだ」と考えました。それが"魂"だということです。

ただしヨーロッパとは違って、これは肉体が死んだ後に、また別の植物や動物やヒトに宿って生まれ変わるのだと考えられました。

この前世・輪廻転生といった思想はヨーロッパではあまり見られません。
それは「Soulは動物にはない」と考えられていたことからも読み取れるでしょう。

つまり仏教における「わたし」とは、肉体という乗り物を操縦する、着脱可能なパイロットのようなものだと考えられていたのです。
これは今も日本に暮らすヒトなら感覚的に持っているイメージでしょう。
ロボットアニメ、物などの擬人化、『君の名は』などの"入れ替わり"も、こうした「わたしという操縦者 (魂) が別の乗り物に移る」というイメージを出発点にしているように思います。

――――――――――――

《ヨーロッパの"わたし"》
しかしデカルトなどの考え方からすれば、

「Soulが入れ替わる?What?私たちが生まれ持つSoulはみんな同じだろう?」

「動物に生まれ替わる?What?Soulはヒトにしかないだろう?だって言葉や考えを使えるのはヒトだけだろう?」
というように、考え方はだいぶ違ってきます。

デカルトは『情念論』で"Soul"と肉体の関係性について詳しく自説を書いています。

これまで書いたようにデカルトは肉体を機械だと考えたわけですが、目・耳などが物を見る・音を聞くことも、単なる物理現象だと捉えていました。

確かに音でいえば、空気という物質が物理的に振動し、それが鼓膜を物理的に震わせているわけですから、物理現象といって間違いないです。

ただデカルトは、その振動はそのままでは無味乾燥なただの振動であり、わたしたちが音を聞いて「鐘の音だな」と鐘のイメージを思い描いたりすることは、機械や物理では説明がつかないと考えました。

そしてその「ただの振動から、それぞれの観念を思い描く働き」を"Soul"が担っていると考えたわけです。

つまり鼓膜が震えた時点では、それは早かったり遅かったり、強かったり弱かったりするただの物の振動でしかありません。
しかしそれらを、頭の中でそれぞれの観念に結びつけるのが"Soul"だという発想です。

前回の記事に書いたように、わたしたちが言葉などによって表現する観念は、もともとSoulが保有していると考えられていたわけですから、
あとは肉体が受け取った振動を「これは鐘」「これは鳥」「これは悲しみ」とそれぞれの観念に結びつけていけば、わたしたちが考えたり想像したりするメカニズムができあがる。

これが、デカルトを始めとする1600年頃の哲学者たちが"わたし"について考えていたことの大雑把な流れです。

画像5

【あとがき】

今回は「わたし」とはなにかについて、
2500年以上前に考案された"Soul"と"魂"という観念の違いによって、
キリスト教圏と仏教圏でどういった「わたし観」の違いが派生していったのか、自分なりに知識を組み合わせて解説しました。

次回「わたしとはなにか?」の第二弾を、フロイトの精神分析論を軸にして書くつもりです。
生まれ持った資質としての「わたし」については今回書いたので、
次は自我が芽生えて、実際に思考したり行動したりする「わたし」について、無意識と意識、個人的欲動と社会的抑圧といった観点から書いてみようと思っています。

よければフォローしておいていただけると嬉しいです。

――――――――――――

追記: 2021/11/2
「わたし」とはなにか?(フロイト編) 投稿しました。

――――――――――――

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?