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「わたし」とはなにか?(フロイト編)

【まえがき】

前回は、
「"わたし"の身体は機械のようなものである」
「"わたし"が考えたりするのは機械や物質とは違うなにかがあるからだ」
という1600年代にデカルトが語ったような考え方について書きました。

そこから200年ほど経つあいだに、科学技術も医学も急速に進歩し、産業革命も起こってきます。
そうして1800~1900年頃、一気に発展したヨーロッパの中でフロイトが提唱した "わたし" 観について、持ち前の知識で解説させてもらいます。

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【フロイトの精神分析学】

今でこそ当たり前に使われている "無意識" という言葉ですが、フロイトが提唱するまではそんなものが存在するなんて信じられていませんでした。

デカルトが代表的ですが 「"わたし" というのは考える存在・意識する主体である」という考えが強かったので、
「"わたし" の中に "わたしが意識できない部分" がある」なんていう考えは当時の人々には衝撃的なものだったはずです。
たとえるなら「何十年も暮らしている家に実は隠し部屋があって、しかもそこにずっと人が住み続けていた」と告げられるようなものだったんじゃないでしょうか。

現代では "無意識" と "意識" の両方が存在することを多くの人が受け入れていますが、それはひとえにフロイトが創始者となった精神分析学_Psychoanalysisのおかげでしょう。

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【症状と無意識】

フロイトの職業は今でいう精神科医でした。
当時は現代のように有効な薬もないため、言葉のやりとりなどコミュニケーションを取りながら問題を解決していくような手法が取られていました。
フロイトはそうした患者たちの症状や診療過程をいくつもの本に書いています。

たとえば、ある若い既婚女性の患者は「自分の家のある部屋に駆け込んでいき、ある決まった場所で用事もないのに召使いの人を呼ぶ」という無意味な行為を何度も繰りかえしてしまう症状に悩まされていました。
止めたいと思っているのに止められず、どうしてそんなことをしてしまうのか理由がわからないと言います。

しかしフロイトがコミュニケーションを続ける中で、彼女はその無意味な行為から、10年前の夫との初夜での出来事を思い出します。

その夜、夫婦で初めて性交しようとしたときに、夫の性器が勃たないという事件が起こった。
いろいろやってもうまくいかず、夫が一度自分の部屋に戻って準備をし、準備ができたら駆け込んできて性交を試みるなんてことまでしたのにうまくいかなかった。
最終的に「うまくいかなかったことが召使いにバレれば恥をかく」ということで、夫はシーツに赤いインクを垂らして、まるでうまく性交できたかのようなカモフラージュをした。

この話からフロイトは「彼女が部屋に駆け込んでいって召使いを呼ぶのはこの10年前の事件の再現だ」と考えました。
その証拠に、彼女が召使いを呼ぶときの "決まった場所" にはテーブルがあり、そのテーブルクロスには大きな染みがついていたといいます。

つまり彼女は、10年前の初夜の事件を無意識に気にし続けていて、
その結果「夫が部屋に駆け込んでいく」「召使いを呼んでベッドシーツの染みを見せる」といった行為を、テーブルクロスという代用品を使ってなんども再現してしまうんだ、ということです。

フロイトはこんな風に、何百人という患者の症例から「無意識的な原因」を探り当てていきました。
そうして患者たちの、本人ですら意味のわからない行動を掘り下げていくことで、現代でいう「無意識」というものの存在に辿りついたのでしょう。

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【フロイトの功績 | "わたし"の中の他者】

さて上記のシーツの染みの話を聞いて、100%納得できた人はどのくらいいるでしょうか。

フロイトはたくさんの患者の、本人ですら意味のわからない症状から「このテーブルクロスは、本当はベッドシーツを意味している」「あなたはこの動物を恐がっているが、本当は父親を恐がっているんだ」などとまるで探偵のように連想をおこない、無意識の行動の奥にある "本当の意味" を探り当てていきます。

しかし中にはこじつけとしか思えないようなものもあるのが事実です。

それではフロイトはただの "こじつけストーリーテラー" だったのでしょうか。もちろんわたしはそうは思いません。

フロイトの功績は、"わたし" という存在の範囲を、それまで考えられていた  "心・意識" の外側にまで拡張したことだと思っています。

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先ほどの例では、既婚女性が無意識にやってしまう行動の原因は、10年前のベッドシーンでの事件ということになっていました。
しかし「それならなぜベッドの方ではなく、わざわざ分かりづらいテーブルの方に召使いを呼ぶのだろうか?」といった疑問も生まれます。

こうした疑問をフロイトは "抑圧" という考え方で説明しています。

簡単に説明すると、我々は誰しも、子どものころに父親などから「〇〇をやっちゃいけない!」と強く叱られた経験があるでしょう。
特に、猥褻な言葉を言ったり、股間をいじったり、性についての部分で叱られることがきっとあったはずです。

そうすると、その叱られた経験が自分の頭の中にインプットされて「それはいけないことなんだ」と、自分で自分を抑制することになります。
これは言い換えれば、自分の頭の中に「叱ってくる父親」がインストールされるようなものです。
それによって、たとえ実際には父親がいない場面でも「〇〇をやっちゃいけない!」と頭の中の父親が叱ってきて、性的な行動や、性的なことを考えたり意識することさえも "抑圧" されるようになるといいます。

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しかし抑圧された欲望は消え去るわけではなく、チャンスがあれば言葉や行動として外に出ようとしてきます。
いわば頭の中で「〇〇をやっちゃいけない!」という父親と、「〇〇をやりたい!」という欲望が戦っているような状態です。

そこで生まれるのが「◇◇をやる」という第三の道です。
これは「〇〇」に似てる「◇◇」を代用品にすることで、「〇〇をやっちゃいけない!」という父親の決まりをすり抜けて、欲望を実現しようという戦略です。

こう書くとよくある「天使と悪魔の言い争いシーン」を思い浮かべるかもしれませんが、これは無意識で行われていることなので、我々がその戦いを自覚することはありません。
無意識の欲望が、無意識の抑圧と戦って、うまくくぐり抜けられた欲望だけが、意識 = つまり私たちの自覚できる領域に上がってくることができるわけです。

つまり召使いを無意味に呼び出す女性の問題は、
1.「10年前の初夜事件」にまつわる無意識の欲望があったが
2. それが抑圧によってストレートに出てくることができず
3.「部屋に駆け入ってテーブルの染みに召使いを呼ぶ」というかたちで代用された
というのがフロイト流の回答になります。

水面下でおこなわれた欲望と抑圧の出し抜きあいの結果、患者本人もなにがなんだかわからないまま、意識で理解できない行為を続けてしまったということになります。

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ここで重要なのは、
・自分が意識できないところ (無意識) で、意思決定が行われている
・父親といった他者の存在や記憶が、その意思決定に影響している
という考え方が提唱されたことでしょう。

今まで「自分の思考や行動は自分で決めている」というのが常識だったところに、
「自分の思考や行動は、自分の知らないところ (無意識や周りの影響) で決まっている」という考え方が出てきたわけです。

これによって "わたし" という存在の範囲が、自分の内側のいわゆる "意識" から、自覚できない無意識の範囲へと広がり、更にそれを形成する外部の環境にまで広げて考えられるようになったのだと思っています。

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【あとがき / 本紹介】

最後まで読んでくださってありがとうございました。
デカルト編から投稿に時間がかかってしまいましたが、ひとまず "わたし" について、既読の古典から語れることはすべて語り終えました。
(また古典を読み進める中で発見があれば書くかもしれません)

現代では脳内活動を観測する機械技術なども進歩しているので、脳科学などで客観的なデータから「"わたし" とはなにか」を語ることができるようになっています。

ただそうした最先端の知見をまとめるのはわたしの手に負えないので、おすすめの本の紹介で締めさせていただきます。

2006年『うぬぼれる脳「鏡の中の顔」と自己意識』 ジュリアン・ポール・キーナン

2020年『クオリアと人工意識』茂木健一郎

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