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何も得なくていい、ただ傷つけられないこと

子どもと関わるとき、私が子どもにしてあげられることなんてあるんだろうかとよく感じる。

子どもにいわゆる「教育する」のがすごく苦手だ。
むしろ、どんどんできないことをできるようにしなきゃと駆り立ててしまうようでごめんねとこっちが謝りたいくらいだ。

できるようになりたいと思うことも、成長することも素晴らしいことだと思う。
ただ、できないことを理由に傷つけられることだけは絶対にあってはならないと思っている。

最近読んだ本の中で、印象深かったのが、おむつなし育児をしている保育園の話だ。

ここではおもらしすることは、屈辱、ととらえられていない。本人も、周りの子どもも、不安に思っていない。それは、周りの大人が、わあわあ、大変、という反応をしないからである。

屈辱感を味わうこと、味わわせること、しかもほれが排泄に関すること、であれば、それは生涯に影響を及ぼす。

 その感情を幼い頃にうえつけられ、そこから自由になるために何十年も苦労する大人が少なくないことは、胸に手を当ててみれば、よくわかるのではあるまいか。
 屈辱感を感じさせない、はっきり意見が言える、自分の快不快を口に出すことにためらいがない、そういった感覚こそが本当の強さであり、幼い人に経験してほしいのは、そういうことしかないのではあるまいか。

三砂ちづる    自分と他人の許し方、あるいは愛し方

これはトイレに限らない。象徴的だなぁと感じた。

教育していい方向に導こうとする、何かを身に着けさせようとする段階で、それができない状態を否定し、叱り、大人は子どもに屈辱感を味わわせて傷つけてしまっているのではないか、と感じた。
そういう経験によって、私たちは大人になっても生きづらい。

何かを得ることも身につけることも人間として大事だ。喜びでもあると思う。
ただし、それは傷つけられないという前提があれば、という気がする。

「自分の考えを持てる」「他人を思いやれる」
こういう社会性やたくさんのスキルは、身につけるものだと思われがちだけれど、実は引き算のように「傷つけられない」ことによってしか生まれないんじゃないかなぁと最近思う。

大人ができることは、子どもを「傷つけない」ように慎重になることしかない。そう思う。

それは、傷つけないように先回りして守る、という意味ではない。傷つくことはもちろんあるだろう。ある程度、言葉で交通整理することは大人の役割として大事だとも思う。

それでも、第一の目標として「傷つけない」があるかどうかによって向かう方向が全く違ってくる気がする。

そして、常に前へ前へと何かを身に着けさせて、「傷つけない」ことが疎かになってしまっている社会であることが、子どもたちを苦しめているんだろうなぁ、と思う。
それはきっと大人も。

無駄に傷つけられることさえなければ、何かを身に着けなくたって私たちはきっとやりたいことも出てくるし、他人とうまくやっていくことだってできる。
そう思うのは性善説なのかなぁ。

それはきっと時間がかかるから、短期的に成果が出たように見える「何かを身に着けさせる」に行きがちなんだろう。
でも、何かを身に着けることで、傷ついたことは帳消しにならない。
短期的に見える成果のために、何かが歪んでいっているような違和感を覚える。

傷つけられないことだけで、私たちは自分を確立させて生きていける。
それが許されるくらいゆったりした時間軸を生きたい。そういう社会がいい。

子どもに何かをしてあげる立場ではなく、私が生きやすい社会の延長線上に子どもの生きやすい社会もある。
地続きで、対等な立場にいる。
そういう姿勢でありたいなといつも思う。

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