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酒飲悪口愛妻作家のパリ生活を覗きたい時に読む本『移動祝祭日』(ヘミングウェイ)

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ヘミングウェイは大酒飲みだった。

彼は酒を飲まねば文章を書くことができなかった。
朝6時に起きて筆を取り、夜8時までグラス片手に書き続け、それ以降は断酒。
なんとも逆転した生活を送っていた。
彼にとってアルコールはペンのインクも同然だった。

だから彼が糖尿病に犯され、酒を控えよと医者から強く忠告された事は、彼の作家人生最大の危機に違いなかった。
そこで考案されたのが”パパ・ダイキリ”

ダイキリのレシピ。
ホワイトラム40ml + ライムジュース10ml + 砂糖2さじ

ここから砂糖を抜いて、ラムとライムジュースを倍、マラスキーノ(サクランボを原料にしたリキュール)6適とグレープフルーツジュース15m入れたものが、ヘミングウェイ特製ダイキリ。”パパ・ダイキリ”だった。砂糖を抜いた分、普通のダイキリよりはまだ健康的だろうということだ。
かくして、ヘミングウェイ は作家人生最大の危機を乗り越えたのであった。
(いやいや、砂糖抜いても、アルコールもジュースも倍にして、リキュールまで混ぜとるやないかい!とも思うが、結果オーライ。ヘミングウェイは文体もアルコールもハードボイルドだったのだ)

ヘミングウェイは武闘派で悪口屋の躁鬱病患者だった。

大柄で、髭面で、強面のヘミングウェイ 。若い頃はボクシングに興じたヘミングウェイ 。
その風態に違わず、彼は思った事はすぐに口に出す人間だった。
ある日ヘミングウェイがカフェで執筆に取り組んでいる時、彼の顔見知りが気さくに話しかけてきた。ヘミングウェイはこう返す。

「はた迷惑な野郎だな、全く。何しにやってきたんだ、あんたの薄汚い縄張りに引っ込んでればいいものを」
「とっとと出ていけよ、その気障ったらしい口に蓋をして」
「さっさとアメリカに帰れよ。そこで仕事を見つけるなり、首を吊るなりするんだな」

ボロカスだ。そげな言わんくてもええのに。

彼は繊細で落ち込みやすく傷つきやすい人間でもあった
デカくて強面で威張り散らしてるヤンキーほど、打たれ弱くて女々しいというのは、あるある中のあるあるだと思う。
ハードボイルドな文体でアメリカ文学史に名を刻んだヘミングウェイも、例に違わず、弱い人間だった。
彼は晩年、躁鬱病に苦しんだ。作品を書くことができなくなった。
彼は最後、猟銃で自分の頭を撃ち抜いて死んだ。
それはこのパリ生活が始まってから40年後の事であった。

ヘミングウェイには多くの友がいた

四方八方に悪口を吐き散らしていた割には、彼の交友関係は豊だった。
その一人にスコット・フィッツジェラルドがいた。*1
フィッツジェラルドは変人だった。
彼はヘミングウェイと初めて出会ったバーで唐突にこんなことを聞く。

「なぁ、きみたち夫婦は、結婚する前から寝てたかい?」

デリカシー0。
ロバート秋山の「性交渉の歌」を思い出した。

ある日フィッツジェラルドが妻(こいつも激ヤバ女)から「アンタの体じゃ感じない」と言われる。フィッツジェラルドは妻以外と寝たことがなかった。ショック!

ヘミングウェイ にこのことを相談する。彼はフィッツジェラルドをトイレに引き連れ、彼のブツを診断する。全く問題ないとの診断結果に納得しないフィッツジェラルド。

「問題なんか何もない。悪い点なんかあるもんか。上から見るから、自然に短く見えるのさ。ルーブルにいって、いろんな彫像を見てごらん。それから家に帰って鏡に写った自分を横から見るといい」
「美術館の彫像は正確に再現されているとは限らないだろ」
「いや、かなり正確なはずさ。たいていの人間はあんなもんだろうよ」
(中略)
で、どうだい、納得できたかい、今の説明で?
「どうかな」
「じゃあ、これから一緒にルーブルに行こうじゃないか」

そうして彼らはルーブルで、数々の”芸術作品”と自分の”芸術作品”を比べて回った。
めっちゃ仲良し。男子校か。

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(ボルゲーゼの剣闘士)

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知ってる人は知っている。知らない人は覚えてね。ヘミングウェイと肩を並べるアメリカの大作家。
村上春樹は彼のファンで、いくつもの翻訳を出している。
一番有名なのがグレート・ギャッツビー。ディカプリオ主演の映画にもなっている。僕も今まさに読んでる(もちろん村上春樹訳)。不思議な本だと思う。なんだか読み難いけどなぜだか放り出せない、そんな魅力がある。
マイロストシティという短編集も出していて、これは最高だった。一つもハズレがない。昼間に読むと切なくて、夜中に読むとガツンとくる、そんな印象だったのを覚えている。

ヘミングウェイは妻を愛していた

ヘミングウェイは22歳の時、8歳年上のハドリーと結婚した。この結婚を機に二人はパリへ越してきた。
彼らはパリで共に暮らし、共に旅をし、共に食事した。

新聞の通信員を辞めてすぐのヘミングウェイは収入が安定せず、常に貧しかった。飢えを凌ぐのもやっとだった。そんな彼を常に支えていたのはハドリーだった。
彼女はヘミングウェイの全てを受け入れていた。ヘミングウェイの口から出る、小言も悪口も弱音も自虐も、あらゆる言葉を飲み込んで、彼の全てを肯定していた。
ヘミングウェイも彼女を愛していた。
朝起きて、酒をのみ、本を書き、妻と食事をし、同じベットで寝る。
彼らは常に一緒にいた。ふたりはパリに暮らしていた。

「で、いつ出発するの?」
「いつでも、きみの好きな時に」
「じゃあすぐにでも行きたいわ。決まってるじゃない」
「戻ってくる時には、きっと澄み切った、いい天気になっているかもしれない。晴れ渡っている時には、素晴らしい天気になるからね」
「そうね、きっとそうだわ。」妻は言った。「あなたも素晴らしいことを思いついてくれたわね、これから出かけるなんて」

ヘミングウェイは妻と離婚した

彼らの結婚生活は6年で幕を落とした。
原因はヘミングウェイの浮気だった。

貧しい冬の時代を乗り越えて、作家としての評価を得たヘミングウェイ。
売れない時には冷たく当たり、売れれば途端に掌返し。お世辞におべっか愛想笑い、これはいつでも世の常だった。
たちまち彼の周りには”リッチな連中”が付け回ることになる。俗な人種、芸術の敵。
ヘミングウェイはたちまち彼らに飲み込まれた。
彼は出来上がりの原稿を、恥ずかしげもなく、連中の目の前で求められるがままに朗読してのけた。当然その場は称賛の嵐。悦に浸り下品な笑みを浮かべるヘミングウェイの姿が目に浮かぶ。

そして夫婦の間にポーリーン・ファイファーという女が現れる。
パリで通信員をしていた彼女は、スレンダーな容姿、趣味、嗜好、全てがハドリーと対照的だった。
ヘミングウェイはポーリーンと関係を持つようになる。後に離婚。子供の親権はハドリーに譲られ、代表作『日はまた昇る』の印税はすベてハドリーに送られることとなった。

『移動祝祭日』が完成したのは1960年、離婚から33年後のことであった。
この本全体がハドリーとの日々の随想であり、後悔であり、懺悔であったのは言うまでもない。
そこには些細な幸せが、若き日の輝きが、不安と貧しさを忘れさせてくれる希望と愛があったはずだった。

先に述べたように、ヘミングウェイは猟銃で自らの命を断つこととなる。
この本が完成した翌年のことであった。

 私は彼女を愛していた。彼女だけを愛していた。二人っきりになると、素晴らしい、魔法のような時を彼女と過ごした。私は仕事に励み、彼女と忘れがたい旅をし、これでもうふたりは大丈夫だと思った。けれども、晩春になって山を離れ、パリに戻ってくると、またもう一人の女とのことがはじまったのだった。
 それがパリ暮らしの一幕の終わりだった

ヘミングウェイは、、、
ヘミングウェイは、、、
ヘミングウェイは、、、




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