【古代】天武天皇の一生
かつて東京大学の日本史の問題で次のような問いがあった。
1999年 東京大学 第1問
次の文章を読み,下記の設問に答えよ。
「天武天皇が,13年(684年)閏4月の詔で『政ノ要ハ軍事ナリ』とのべたとき,かれは国家について一つの真実を語ったのである。(中略)「政ノ要ハ軍事ナリ」の原則には,天武の個人的経験を越えた古代の国際的経験が集約されているとみるべきであろう。」
これは,古代国家の形成について,ある著名な歴史家が述べたものである。軍事力の建設の視点からみると,律令国家の支配の仕組みや,正丁3~4人を標準として1戸を編成したことの意味がわかりやすい。
【設問】
7世紀後半の戸籍作成の進展と,律令国家の軍事体制の特色について,両者の関連,および背景となった「天武の個人的経験」「古代の国際的経験」をふまえて,7行以内で説明せよ。
天武天皇(大海人皇子)は天智天皇(中大兄皇子)という絶対的権力者の実弟であり、兄が乙巳の変を起こし、蘇我氏本家を滅ぼすと、一気に権力の階段を駆け上がる。660年に同盟国百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされると、百済復興の要請を請け、663年白村江の戦いが勃発する。唐・新羅連合軍に敗北した倭は国防の充実を迫られる。幸い、東アジアの情勢変化の中日本に侵攻することはなかったが、国内的には天智天皇亡き後の後継者問題で政権は動揺する。皇位継承権があると考えていた大海人皇子をよそに、天智天皇は子である大友皇子を太政大臣に任命し、左大臣・右大臣といったヤマト政権の有力豪族をつけ、次期皇位継承者であるかのようにしたのだ。結果、天智天皇が崩御した672年、古代最大の争乱壬申の乱は勃発した。近江朝廷(政府軍)vs吉野軍(地方豪族を結集した大海人皇子側の軍 ※吉野は地名)の激突である。
この戦いに、東国の豪族の動員に成功した吉野軍の勝利に終わる。大海人皇子は晴れて、天武天皇として即位する。近江朝廷にいた有力豪族が軒並み没落したことで、相対的に天皇の権力が高まり、中央集権化がこの時期進んだ。天皇号や日本という呼び方もこの頃使われ始めたと言われている。国家というまとまり、君主という考え方が浸透したからだろうと思われる。そして天武天皇は、全国統一的な戸籍作成に乗り出し、人民の直接把握、それによる一元的な徴税や徴兵を行い、国力の増強を図った。地方行政区画を定め、25人程度を行政上、1家族(1戸)とした。この1家族には成人男性が3、4人なるようにしていた。そして当時の徴兵制では成人男性3、4人から一人を徴発し軍団で軍事訓練を受けさせることになっている。つまり、1戸から1人を徴発するように戸籍作成も行政区画も進められていたのだ。幼少の頃から政変や対外戦争、国内の内戦を経験した、天武天皇だからこそ軍事の大切さを痛感し、国力の増強に全力で努めたのだろう。
2015年に安全保障関連法案が成立したことはご存じだろうか。安倍政権は集団的自衛権の行使を閣議決定している。国防は古代から国家の存亡において必要なものであったのは事実だ。そうでなければ、他国に侵略されていた可能性もある。
しかし、一国民として戦争には反対だ。日本は常に戦争反対を訴え、戦争はしない、巻き込まれないという信念を持って欲しい。かつて石橋湛山が小日本主義を唱えたように、国際社会の激変を理由に、集団的自衛権の行使は必要不可欠と早計せず、日本が平和を掲げる国として一貫した方向性を貫いて欲しいと思う。
歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。