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【古代】中臣鎌足(614年〜669年)

源平藤橘と呼ばれる、名家に名を連ねるのが藤原氏である。藤原氏は中臣鎌足に始まる。彼の姓は中臣、つまり連(むらじ)姓であった。当時の大和政権は豪族の連合政権であり、その中で臣の姓を持つ、蘇我氏や葛城氏などが、皇族と近い関係を持ち、ある種の特権を持っていた。連姓の豪族は特定の職能で大和政権に仕える、ある種外様であり、大王家や臣姓の豪族に対してある種のコンプレックスを持っていた。

だからこそ、中臣鎌足は中大兄皇子という皇族、舒明天皇と皇極天皇の皇子という、体全体を皇族の血統で纏った男と友人になったことは、何よりも幸運なことであった。彼は南淵請安という、中華帝国隋・唐で大陸の進んだ知識・学問を手に入れた男の塾で学び、中大兄皇子も共に学友となった。中大兄皇子と中臣鎌足は蹴鞠(今でいうサッカー)で、親交を深め、身分を超えて真の友となった。塾の終わりには、河原で夕日が沈んでも天下国家を論じあったという。青年らしいまっすぐな気持ちで、お互いの熱い胸の内を語り合ったのだ。二人は倭と呼ばれ、侮られたこのクニを強くしたい。大陸の国々に列する大国にしたいと強く願った。

当時、蘇我氏は政治を専断し、入鹿が大臣(首相)となると、有力な皇位継承者山背大兄王を暗殺し、意のままに操れる、甥の古人大兄皇子を皇位につけようとした。中華は法による支配を進め、立憲君主制を導入し、官僚が国家の運営を担う体制に移行しつつある。蘇我氏の専断が進めば、日本はいつまでたっても世襲制の豪族政治が続く。またあろうことか、蘇我氏は天皇を凌駕する権力を手にしようとしている。危機感を募らせた中大兄皇子と中臣鎌足は、一世一代のクーデターを挙行した。これが乙巳の変である。

645年、宮中にて、天皇の目の前で当時のナンバー1の政治家が惨殺された。今で言えば、天皇の目の前で息子が安倍首相を惨殺するような事件であった(あくまで例えばの話)。この事件の結果、国家体制は刷新され、新人事が打ち出される。皇太子には中大兄皇子、中臣鎌足は内臣といって、事実上のナンバー2となった。政変後の運営は簡単なものではなかった。天皇中心の国家体制を築き、豪族の権限を吸収し、取り上げることは当然反発もある。それらを上手くいなしながら、公地公民制や地方行政区画、新税制や戸籍の作成などの内政を進めていった。国家体制を固めていくために、少なくない政敵を葬ってもいった。

外交では、唐の強大化や、朝鮮半島の動乱により、660年、友好国百済が滅び、日本にいた百済皇子豊璋を伴い、百済に赴き、663年には百済復興のため、唐・新羅連合軍と戦い、日本は無残にも敗れ去った。外交上の舵取りは難しかったが、結果としてその後国内体制は国防を中心に、中央集権が進んでいく。

結果的に、唐・新羅が日本に攻め込むことはなかった。高句麗が粘り強く戦い、668年まで抗戦を続けたためだった。中臣鎌足はその翌年、死去する。実は晩年は中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足の間には溝ができ、中大兄皇子は中臣鎌足を遠ざけていたという。代わりに、弟の大海人皇子を片腕としていたが、中臣鎌足が危篤状態に陥ったという話がもたらされると、中大兄皇子の心は動揺した。そして青春時代からの出来事が走馬灯のように駆け巡った。共に塾に通い、天下国家を論じあった日々、政変を起こしたあの日、国家体制を固めるため奔走したことなど、中大兄皇子の隣にはいつだって中臣鎌足がいた。

たまらなくなった中大兄皇子は、突然、宮廷を飛び出し、中臣鎌足の屋敷まで走った。

ドンドンドン!ドンドンドン!真夜中に扉を叩く音。

息子の不比等が扉を開けると、そこには天智天皇が立っていた。

天智天皇の来訪を知ると、中臣鎌足は息も絶え絶えで、体を起こそうとする。

そのままでええ。鎌足、最近はお前を遠ざけてしまったが、最後に言いたいことがある。俺はお前のことがめっちゃ好きや!お前がおらんかったら今の俺はおらん。ありがとう!!

そして、天智天皇は、大織冠という最高冠位を授与され、臣姓である藤原の姓を授かった。鎌足は感涙に言葉も出なかった。そして、翌日この世を去ったという。

ここから、藤原氏の物語が始まる。この一族は、最強の一族である。奈良時代に天皇家と結びつき、平安時代に摂関政治という一時代を築き、その後の武家政権の時代にも摂関家は五摂家に別れ、常に摂政関白を輩出し、明治以降も名家として存在し、昭和時代には近衛文麿という首相も輩出している。類まれな政治運営術と処世術を持ち合わせ、他を圧倒していった。

藤原氏を一つに括ることができないほど様々な人物を輩出しており、今後も出来るだけ紹介していきたい。今日は中臣鎌足という、藤原氏の始まりの人物をしっかりと紹介しておきたいと思い、書かせていただきました。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。