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岡本太郎の日本 (1)

岡本太郎の『日本の伝統』(光文社)を読んだ。


「近ごろ世の中がチンマリ落ちついてきました。新しいものにぶつかって前進していくというよりも、一種の無気力さから、すべてが後もどりしているのではないか、という感じです」
(『日本の伝統』光文社 35P )

序文からいきなりこれである。
この本が書かれたのは1956年、昭和31年。
敗戦からたったの11年後。『三丁目の夕日』よりも前の時代だ。

「チンマリ落ち着いてきた」????

日本はこれから安保闘争と高度成長期を迎えようという時代。その時点ですでに日本の「無気力」を感じているとは、いったいどういうことなのか。

岡本太郎という人

わたしたちの世代にとって岡本太郎はテレビのコマーシャルで「芸術はバクハツだ!」と叫ぶ、エキセントリックなゲイジュツ家だった。

1980年代のあの騒々しい躁状態のテレビ空間のなかで、太郎さんは怪異な存在として躁状態の芸人たちをしのぐ存在感を爆発させていた。

10〜20代の頃のわたしはその背景も仕事も思想もほとんど知らず、単に「よくわからんけど凄みのあるアートおじさん」だと思っていた。

『日本の伝統』は、ベストセラーとなった『今日の芸術』に続く、太郎さん渾身の芸術論。どちらも、ぜんぜんアカデミズム目線ではなく、アートにあまり親しくない人向けに書かれている。

太郎さんは18歳でフランスに渡り、第二次大戦の直前に帰国するまで10年以上を当時アートの中心地だったパリで過ごし、ヨーロッパの重厚な伝統と、最先端の抽象主義やシュールレアリスムなどの思想と切り結んだ。

帰国後、兵役を経て、戦後日本の文化を厳しく見つめ、芸術のあるべき姿を説いたのが『今日の芸術』。さらに、その主張にもとづいて日本文化の性格と位置づけを語ったのが『日本の伝統』だ。

その視線は、21世紀の日本人にとっても充分に刺激的なものだと思う。

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日本の美術史BY太郎

「日本人くらい、一方に伝統のおもみを受けていながら、しかし生活的にその行方をうしなっている国民はないでしょう」(『日本の伝統』47p )

…と語る太郎さん。日本の伝統芸術を俯瞰する視点も、とてもおもしろい。

飛鳥・奈良時代に大陸からわたってきた豪華絢爛な仏教美術は、現代の鑑賞者が薄暗い堂宇のなかで見る佇まいとはまったく違う、極彩色の「こってりとした壮大なスペクタクル」であったし、「この時代の人は、おそらく今日つきあったらやりきれないくらい無邪気だったにちがいない」という。(同67p)


たしかに、当時の超大国、唐から直輸入の文化を貪欲に消化中だった天平の人たちの美意識は、素朴でまっすぐな「大陸かぶれ」だったのかもしれない。

平安時代、魑魅魍魎が跋扈する世界を締め出し、都にこもった貴族たちの繊細な宮廷文化を太郎さんは「重箱文化」と呼び、それが以降の日本文化の土台になってしまったことを嘆く。これを土台として「本質的な対決のない不毛な世界のなかで消極的に身をまもる順応性」が日本の特徴になったという。(同226p)

中世の戦乱の世には、禅宗というこれまた新しく輸入された「積極的な無の哲学」にもとづく「わびさび」の美学が成立して、貴族のすさびだった茶の湯や民衆娯楽だった能を高度な自覚をもつ芸術に高めた。太郎さんは、これらは芸術革命であり、当時のモダンアートだった、と語る。

しかしそれ以降の江戸文化については辛辣だ。徳川の封建時代には日本の芸術は「人間の表側よりも裏側だけに神経を集中し、強烈な生命力の奔出よりも繊細なひねりを「通」とする」文化に落ち着いていき、「洒落や、味や、型の世界に堕落して」いった、と指摘する。(同69p)

さらに明治維新後の帝国日本は、国策として日本文化を国内外に喧伝するために「伝統」芸術をまとめあげ、「消極的な裏側文化の面だけに『日本の伝統』という決定的なレッテルをはってしまった」という。(同69p)

戦後の社会でうやうやしくありがたがられていた日本の伝統美術は、明治時代に西洋文明に対抗すべく盛り立てられたものの継承だ。

太郎さんは「私はこのような、西欧文化へのコンプレックスとして急ごしらえされた、いわば影のようなつくりものを信じることはできません。それはついに実体を喪失した文化の裏側であるにすぎないのです」とスッパリ斬る(同70p)。

「裏側」の伝統美術にまったく感心しなかった太郎さんは、縄文美術、元禄時代の尾形光琳の作品、そして室町時代以降の日本庭園に、真正の芸術を見る。

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縄文、光琳、枯山水


戦後、日本の伝統美術の覇気のなさに絶望していた太郎さんは、縄文土器の美を発見して衝撃を受けた。

縄文美術は21世紀の今、なんだか人気だが、戦後まもなくの時代には正統な日本の伝統とは異質なものとして敬遠されていたという。

縄文の美の発見者を自認する太郎さんは、「空間を内部に取り込み、造形要素に転化せしめ、ついには空間そのものを彫刻した」ジャコメッティやカルダーといった20世紀抽象主義彫刻家の作品にみられる空間構成よりも「さらにはげしい」突き抜けた空間処理を縄文土器に見出す。そして、現代の芸術家も縄文人が超自然的世界と交渉していたような直截さで現実と対峙するべきだ、と主張する。

また、太郎さんは1930年代のパリで、たまたま目にした尾形光琳の「紅白梅」の「すさまじい非情美」に打たれ、狂喜したという。

明快さの裏には、技術的に、また精神的に、のっぴきならない矛盾をはらんでいる。はげしい対立を克服して、一だんと冴えた緊張がある」と、太郎さんは光琳の「紅白梅」「燕子花図屏風」を評価する。(『日本の伝統』117p)

光琳のこの二つの作品には、元禄時代の富裕な町人層の現実主義と、京都のお公家さんに受け継がれていた貴族芸術の優雅な抽象性という矛盾が烈しく対峙して「非情」な論理性に裏づけられた美を作り出しているという。

太郎さんによれば、そういった「根本的な矛盾」との対決こそが「人間を生命の底からゆすって動かす」真の芸術の条件なのだ。

後半では、太郎さんは日本庭園を分析する。室町・桃山時代から江戸時代というのは「近代日本の美意識が完成された時期」であり、その時代に造られた名園と呼ばれるものの多くには、借景という「驚異的な技術」があったと指摘。(同141p)

周囲の自然と人工の庭を対峙させることで高度な緊張を生む借景の「おどろくべき弁証法的技術」を称賛しつつ、現在(昭和中期)のインテリたちはもったいぶって名園を称賛しているけれど、きちんと理解していない、とクギをさす。

そもそも、塀の後ろの木が伸びてしまったり家が建て込んできたりして、肝心かなめの借景が消えてしまった庭が多いのだという。

鎌倉以降には禅の思想にもとづき、枯山水に代表される哲学的な庭が造られはじめた。しかし太郎さんはこの枯山水にも満足しない。

傑作とされている龍安寺の石庭も「不徹底」であり、自然と反自然の対峙という「大きな問題を提起していながら、趣味的な安逸さのため途中で堕落してしまっている」とダメ出しをしている。(同245p)

日本庭園そのものが「一種のあいまいさ、つまり徹底した自然でもなければ、反自然でもないという弱さ」を持つ、と、ピシリと言ったあとで太郎さんは、いや、でも庭っていうのは「一義的な」芸術表現をめざしてはいなかったんだよな、とも書き添えている。

武将や大名たちにとっては庭は芸術革命の場ではなく「静かに放心する」癒やしの場であり、「消極的な精神生活の反映」であったと。(同267p)

こうした「消極的な」安らぎの追求としての美術は人間にとって一義的なものではないと、太郎さんはみなしていた。

続きます>(2)


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