つぶやき。言葉のこと。 6月12日

言葉が通じるというのは難しいことだと思う。
外国との交流のことではない。
同じ国で同じ言葉を話す人と言葉が通じない、と感じることが多くなった。

ある言葉に対して同じものが共有されていないと言葉は意味を成さない。
「赤い」と言った時に相手が「赤」をイメージしてくれていないと会話は成り立たない。相手も同じものをイメージしてくれていると暗黙のうちに信じているから、言葉でコミュニケーションを取っている。そうした「同じものをイメージしているはず」という信頼や前提がどんどんなくなっている。

連日政治の話で恐縮だが、政治家の言っている言葉はリアルに意味がわからないことが多い。詭弁なのか言い訳なのか詐欺師なのか本当にそう思っているのか。
そんなことを考えているうちにその言葉は流れていき、ちゃんと確認もされず、もうどうでもいいじゃん、ということになっていく。なんだこれ?となり、ますます言葉に対する疑いが膨らむ。
さらにまずいことに日常生活でも「ちょっと待って。それってこういう意味で使っている言葉だよね?」と確認することが多くなった。意味が共有できていないと気づくことが多くなった。やばいなと思う。

でも、ある日「あ、そうか。だから芸術ってあるんだ。」と気づいた。

詩も、絵も、音楽も、そのためにある。
言葉では通じないものを互いに通わすためにある。
そもそも世界は言葉だけで通じるものでも伝わるものでもない。
五感を使うことで通じる。伝わる。
世界は言葉なんかを超えて豊かに広がっている!
五感を忘れていく社会は衰退する。
それに気づいている社会は芸術をとても大切にする。

言葉って難しい、言葉が通じない、言葉で意味が共有できない、というヤバさについて考えていたら、言葉に閉じ込められていた自分に気づいた。危なかった。
言葉の不自由さを理解して諦めつつも言葉を使ってコミュニケーションし、そして言葉を軽々と超える芸術のパワーを感じてそこに身を委ねること。
それだ。

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