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3/25「偽物の恋」超短編小説

3月25日 電気記念日
1878年のこの日、東京電信中央局の開業祝賀会の会場で、日本初の電灯(アーク灯)が点灯した。

白熱電球はガラス球内のフィラメントに電流を流して加熱し、放射光を得るもので、あたたかなオレンジ色の光を放つのが特徴。
消費電力が大きいことから省エネの観点により使われなくなった。


白熱電球のあかりが好きだ。炎のようなあたたかな光源を眺めていると、焚火を眺めているような気分になってなんとなく落ち着く。
蛍光灯やLEDにも白熱電球の色に近づけたオレンジ色の光を放つものがあるけれど、あれでは落ち着けない。やはり偽物はダメだ。本物にはかなわない。

ピロートークとでもいうのだろうか。
バーで出会った女性と情事を楽しんだ後のけだるくまどろんだ時間、ベッドで寝ころんだまま、柔らかな光をともす電燈を眺めながら俺がそんなことを言うと女性はゆったり笑いながら言った。
「偽物を楽しんでおいてよく言うわ」
「どういうこと?」
俺は隣で寝ころんでいる女性に顔を向ける。
「これだって偽物の恋愛のようなものでしょ。あなた、彼女いるわよね」
小さな子どものいたずらを発見した大人のふるまいで、優しくダメでしょとでも言うように女性は俺にささやいた。
「分かるの?」
「分かるわよ、わたしも彼氏いるし」
「じゃあ、そっちも偽物を楽しんだわけだ」
「わたしは本物だとか偽物だとか区別しないわ。それぞれを楽しむだけ」
女性はうつぶせになって俺の顔を覗き込んできた。濡れた瞳が色っぽい。
「それに偽物の方が主流になることもあるでしょ。そうなると本物の方が偽物みたいじゃない。見分けがつかないわ」
「なるほどね。確かに、白熱電灯を見たことがない人にとっては、オレンジ色の蛍光灯やLEDが唯一無二の本物になるよね」
「でしょ」
女性は満足そうに微笑むとゆっくりベッドから起き上がってシャワールームへ向かう。
ゆれる長い黒髪とくびれた腰のライン、すらりと伸びた手脚。その美しい後ろ姿を俺は無意識に目で追っていた。


女性と出会ったのは年季の入った小さなバーだ。
お店の出入口の古い木のドアは、開くと上に取り付けられたベルがちりんと鳴って誰かが出入りしたことを知らせてくれる。
店内はオレンジ色の光がほんのりと灯っていて薄暗い。席も少なく少人数で静かに酒を楽しむような場所。落ち着いた雰囲気の店内に入ると、喧騒から逃れられた安堵から思わずため息が漏れる。

今日も俺は一人でその店を訪れていた。入ってみると店内に客は一人しかいない。たまにこの店で見かける女性だ。
L型のカウンター席の奥に女性は座っていた。俺は女性が斜め左に見える位置に腰かけた。いつもは他の客に埋もれて気にも留めなかったが、二人きりだとつい女性に意識がいってしまう。

女性は姿勢よくスツールに腰かけグラスを手にもてあそびながらぼんやりしていた。
そして時折、グラスを傾けた。酒の味を楽しむように少量を口に含み、ゆっくりのみこむ。
すべての所作が美しく、妙に色っぽい。俺はつい見入ってしまっていた。

薄暗い中で見るその人も素敵だが、明るい照明の下でも見てみたい。
悪いと思いつつも、俺は想像の中で女性の服を脱がせてしまう。
白い蛍光灯の下なら、その肌は青白く美しく光るのだろう。
暖かな色の白熱灯の下なら、興奮しているかのように肌は赤く染まるだろう。


声をかけてみようか。俺はつばを飲み込む。


白髪頭の寡黙なマスター、静かな店内に流れる美しいジャズ、一人の男と、一人の女。他に客の姿はない。
おあつらえ向きとはこのことだ。
その色香に吸い寄せられるように俺は女性に近づいていった。


一夜を共にした後、女性に連絡先も聞かずに別れた。
バーでいつでも会えると思っていたが違った。女性はあれから一度もバーに姿を現さない。
会えないせいで恋しくなるのか、それとも最初から恋に落ちていたのか、女性への思いは日に日に募っていった。
そうこうしているうちに、付き合っている彼女に別れを切り出された。彼女も他に好きな人ができたらしい。

本物の恋が偽物になって、偽物の恋が本物になった。

今夜も俺は一人でバーにいる。店のドアの上に取り付けられたベルがちりんと鳴るたびに、彼女が来たかもと期待してそちらを振り向いてしまう。

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