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「誰が言ったのか」でも「何を言ったのか」でもなく 、「誰が何を言ったのか」

何を言ったのか

何を言ったのか。
そこに耳を傾けなさい。

就活の時、そう言われた。
それは、当時の私にとって、すごく大切な観点だった。

なぜなら、就活中は、こんなことがよく起こるからだ。

面接官がすごい人に見える。
グループワークのあの人は、すごいできる奴に見える。
自分は、できないように、感じる。

肩書きがある面接官と、まだ何者でもない自分。
学生時代に実績のあるあの人と、まだ何も実績を残していない自分。

そこを比較してしまうがために、
その人が発した言葉すらも
「すごい」「正しい」ように見えてしまうという現象だ。
この現象に名前をつけたいくらい、本当によく起こると思う。

しかしそれでは、本質を見誤ってしまう。
肩書きや実績というメガネを通して解釈され、歪曲された言葉からは、
本当の意味を汲み取ることができない。

だからこそ、就活中は、
肩書きや立場にとらわれず、
「何を言ったのか」をまっすぐに受け取ることを意識していた。

発言=事実+解釈

だとするならば、
左辺を聞きつつ、
右辺の「事実」を捉えるということを意識していた。

それは例えてみるならば、
フィルター(解釈)を通してつくられた、
コーヒーという飲み物(発言)ではなく、
そもそも、そのコーヒー豆(事実)はどんな豆なのか。
それを洞察しようとしていた、とも表現できる。

そして、このように見出されたコーヒー豆であり事実こそが、
物事の本質だと考えていた。

誰が言ったのか

しかし、本当にそうなのだろうか。
事実だけが本質なのだろうか。

そう感じたきっかけは、社会人になり、
インフルエンサーマーケティングという業界で働くようになってからだ。

この業界は、
心が動く瞬間をつくることに挑戦していて、
「誰が言ったのか」ということに、圧倒的な価値が置かれている世界だ。

実際に、
同じ商品のPRでも、どのインフルエンサーがPRするかによって、
フォロワーの反応が全く異なる。

例えば、SNSの投稿に対するフォロワーからのリアクションが
生まれにくいインフルエンサーもいれば、
買っちゃいました!という購入に関するコメントが
乱立するインフルエンサーもいる。


そんな世界に身を置いた今、
就活の時に学んだ「事実を洞察する」という行為だけでは、
人の心は動かせないと悟った。

けれどそれは、
同じコーヒー豆(商品)でも、
フィルター(インフルエンサー)が異なれば、
コーヒーという飲み物(伝わるメッセージ)が異なるという、
ごくごくあたりまえなことかもしれないとも感じた。

心が動く瞬間をつくるということ

それでも変わらず感じていることは、
物事の本質を思考するというスタンスは、とても大事だということ。

それは、情報が溢れるこの世の中で、事実と解釈を切り離し、
自分の意見を持ち続けるために欠かせないスタンスだからだ。

けれど、同時に感じていることは、
本質を求めすぎると、
そこは、なんだか味気ない世界になってしまわないかということだ。

どんなコーヒーも、
結局それはコーヒー豆だ、と言われてしまったら、
そこで話は終わってしまう。

たしかに、コーヒーってコーヒー豆からできる飲み物なんだけど。
それはそうなんだけど。

本当に心が動かされる瞬間って、
「それはそうだ」という本質を踏まえながらも、
もっともっとその先の、
遊びが生まれた世界にあるんだと思う。

自分が飲んでいるものは、
もともと単なるコーヒー豆だということがわかっていたとしても、
その豆がくぐってきたフィルターや、
それによって生まれたメッセージまでも味わうことで、
感じられる余白的時間のことなんだと思う。

それはすなわち、
何を言ったのかという本質的な事実を踏まえると同時に、
誰が言ったのかという、
その言葉を発した人の人生までも、
重層的に味わう行為でもあるんだと思う。

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