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大好きなゼミの先生の格言 その1:「たしかなことば」

わたしのゼミは教育社会学だった。
教育というテーマを社会学するので、
ゼミを通して、生きるということに向き合ったというのは必然だったのかもしれない。
そして、個人の人生から社会問題へと、自然と思考が移行したことも必然だったのかもしれない。

そんなかけがえのない場をくださった、大好きなゼミの先生の格言を、ここに書き残しておきたい。

たしかなことば

「学校教育は遅れている。」
「課題解決能力ではなく問題発見能力が重要だ。」

こうした言説は、社会にあたりまえ溢れている。
けれども、その言葉の意味を疑ってみると、その言説の意味は、途端に崩れてしまう。

ゼミでは、レジュメに書いた言葉には責任を持つこと、と先生に繰り返し指摘された。
責任を持つとは、すなわち、その言葉の意味を自分の言葉で説明することができるということだ。
それは、具体的に説明するのでもいいし、先行研究ではどのように書かれているのか、その論理を説明するのでもいい。
それが、言葉をたしかなものにする一歩だった。
そして、初めて、議論が深まっていた。

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私は、この「たしかなことば」というキーワードから、
世界は、あたりまえにカオスであるということを学んだ。

個性尊重の教育っていいよねとか、
自分の好きなことで生きるっていいよねとか、
そういうあたりまえに言われている抽象的な言葉を、
いざ具体的なものを前に語ろうとすると、とても語りきれない。

個性尊重の教育というけれど、それってそもそもどんな教育?
そもそも、教育とは、ある一定の方向性を与えて伸ばす営みだとするならば、完全に個性を尊重した教育って、可能なのか?
両者は両立するものなのだろうか?
こんなふうに、言葉のたしかさを少し疑えば、途端に議論が巻き起こる。

それは、具体的な現実を語るには、
ある一面から、言葉という道具を使って切り取る必要があるからであり、
その切り取った観点とは、個人の価値観や環境に大いに影響されるからであり、
具体的な現実とは、静的なものではなく、常に変化している生き物だから。

このように考えると、そもそも言葉は、
正確に・完璧に、具体的な現実を表現することに、限界があるのだろう。
しかし、逆に、それでも言語活動が成立していると考えると、
その言葉が持つ意味を、私たちは、暗に、自然と、共有しているということもわかる。

カオスな世界で、意味を完全に表し切れていないはずの言葉が、何かしらの意味を持っているということ。
そんなグラグラしたあやふやな言葉に依拠して、私たちは生きているということ。

そう考えると、もっと世界を客観的に、落ち着いて、俯瞰して、
捉え直すことができるのではないだろうか。

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