マジョリティとして生きる(朝井リョウ『正欲』の感想のようなもの)
だから私は今日も、マジョリティとして生きなくてはならない。
生まれながらに与えられた、全ての『特権』を原罪のように自覚しながら。
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朝井リョウさんの『正欲』を読みました。
それの感想を書きたいと思います。
しかし、あまりうまく言語化できる感想でもないですし、本の内容というよりむしろ自分の体験メインの話になると思います。
脈略も構成もない話に付き合える方のみ、あと、私の無根拠で漠然とした憎悪に耐えられる方のみ、先に読み進めてください。
読後感が決していい小説ではなかった。
もちろん、それを求めていた訳ではない。むしろ精神をぐちゃぐちゃにして、めった刺しにしてくれることを望んで、この本を借りた。
しかし、そうでもなかった。
帯に書かれた「読む前の自分には戻れない」という体験にもならなかった。
ただ、ひたすらに頭が重く、心が重い。
精神を外部から攻撃してくるのではない。
何かに心の中身をかき混ぜられ、沈殿していた黒い何かを拡散させられ、ひどく精神が濁ってしまった気分だった……というには朝井リョウの文体をひきずりすぎか。
まず、この本の感想として考えられるのは、「多様性賛歌」に対する批判だ。
どこもかしこも「多様性」だの「自分らしく」だのを掲げる現代、それを良く思わない人からすれば、その薄っぺらさを痛烈に描いたこの物語はなんとも痛快だっただろう。
それは私も同じだ。
だが、その程度の批判はもうそこらじゅうの学者が言っていて、最初に「児童ポルノ」の事件が出てきた時は、「私は今、倫理学の授業を受けているのか……?」と錯覚したほどだった。
話は逸れるが、「多様性」というか「マイノリティ」の研究は、私の所属する専修の本流だ。私は大して熱心にそれを学んでいるわけではないが、それでも、「多様性」という言葉の持つ規範について話していたのは覚えていた。印象にも残っていた。
あと。
ペドフィリア、小児性愛などが「性的倒錯」としてかなり認知されている一方、他にも人々に知られていない特殊性癖が無限にあることも私は知っていた。
これは倫理学の学生であることは無関係に、単純にインターネットから得た情報だった。人間に性欲を抱くか抱かないかはともかく、人間でないものに性的に興奮する人々の存在を、私は「深淵」くらいの距離感で知っていた(深く知るほどの勇気はなかった、という意味である)。
だから、この話の驚きポイントのひとつを、私はさほど驚かずに読めた。
世間の考える「多様性」というのが、いかに視野の狭いものか。私達の想像もしない趣向の存在。それを気付かせてくれるのは、この本のいいところでもあるが、それに終始していたら、きっとひどくつまらなかっただろう。
もっと言えば、この本の中で最大の規範とされている「明日、生きること」についても、私はその存在を認知していた。今、認知していたの前に「ちゃんと」と挿入しそうになった自分が憎い。
それを自覚していたとて、何も偉くないのに。
ともかく、私は明日死んでもいいと思っていたことがあり、それは今思い返すとどれだけ切実だったのか、もう分からないけれど。
ただそれ故に、私はこの物語を通じて、自分が異質なものに変わったとは思わないのだと考察している。何かの価値観を得た訳でもないと、思っている。
しかし、「そう思いたいだけだろ」と、うるさい声もする。まあ、そうかもしれない。一度読んだだけでは、何を分かった気にもなれない感じもある。
*
私の読後感がひどく「重たい」ものだったのは、人間に対する嫌悪を増幅させられたからではないか。精神を攪拌されて、浮かび上がったのは、そういう感情だった。
(と、現段階の私は私をそう考察している(としか何事も言えない))
そこには、先ほど述べた時代によって掲げられる「多様性」に対する怒りも確かにある。
でも、それよりももっと広い意味での嫌悪感。
マジョリティとかマイノリティとか関係なく、人間が根本的に持っている弱さ。それをどうにか隠したまま不安を取り除こうとする浅ましさ。
それに対する嫌悪感が、私の中に渦巻いて濁っている気がするのだ。
私はもともと、人間の善意というものをあまり信じていない。
人間は全てエゴのために活動しており、全ての善行も奉仕も、ある程度の他己性はあっても、エゴの入っていないものなど有り得ない。
そう。たとえ、自分の命を犠牲にして誰かの命を助けたとて。
そこには、「この人を私が救いたい」というエゴがあり。むしろ、その人がこれから自分なしに生きる苦痛や罪悪感など微塵も考えていなかったりする。
もちろん、人は醜くて。だからこそ、美しい。
的にポジティブに語ることもできる。そう思う時も確かにある。
でも、この小説を読んだ後の今の私は、「人は醜い。だからこそ、醜い」と誰かの構文のような気分だった。
急にレビューっぽいことを言うと、朝井リョウは「感情が身体を追い越す」という状態を描くのが上手い。しかし、それは新海誠の『君の名は。』で描かれるような美しいものではなく、ひどくありふれて、醜いものだ。
例えば、登場人物の一人に、不登校の子供を持つ検事の男がいる。彼は、自らの経験から、子供の言うことも尊重したいが、それでもいつかは学校に戻るべきだと思っている。
しかし、子供や妻と冷静に会話をしようとしても、どうしてもその感情が男を追い越してしまう。目の前の「対話」ではなく、この感情を押し通すことが目的になってしまう。
これは、日常生活にありふれていることだ。
別に目の前の人を説き伏せる必要などないのに、何か不安ともいえる感情に駆られて、人は言うべきでないことまで伝えてしまう。聞いてもないことを、必死に話してしまう。
それは、人間が共通して抱える「私」に対する不安だ。
「私を特別だと思いたい」とか、「私を普通だと思いたい」とか。
矛盾しているこのふたつだが、一人の人間の中で共存することは往々にしてある。
そういった不安が社会の底に海のように流れていて、私はそれをいつも見ないようにしながら。でも、人と関わる度に、微量でも少しずつそれに対する嫌悪感は募らせながら。
今、それが私の中で爆発したように溢れかえっている。気がする。
*
最後に、マジョリティとして生きる私について。
私は日本人の両親のもとで。
日本に五体満足で生まれ。
その中でも割と都会に近い場所で育ち。
特に苦労なく大学まで通っている。
異性愛者かつ。
シス男性だ。
きっと、社会の多くは気付いていないだけで、私のような人間に作られたものばかりなのだろう。
例えば、学食でご飯を食べる時も。
本屋で本を買う時も。
それこそ、夜道を一人で歩く時も。
小説でも出てくるように、コンビニに売られてるコンドームも、乱立するラブホテルも。
全て、マジョリティのために整えられ、組み込まれた社会。
それでも、私は自分の事を「まとも」だと思えない。
「まとも」に見えるように生きてきただけだ。
私が抱えている不安は、「自分がまともかどうか」ではない。
「自分がまともに見えるかどうか」だ。
右左を確認して、人間の真似をして生きているように感じるのだ。
きっとそれはありふれた経験で。
マジョリティと呼ばれる人も何かしらの「マイノリティ」を抱えていて。
自分だけしか経験しない感覚や性質を抱えていて。
でも、私たちの持つこの「孤独」には今の多様性の社会は目を向けてくれない。あなたたちは恵まれているのだと、自分の持つ「特権」を自覚しろと、やかましく唱えてくる。
それはどこまでも正しい。
小説を読んで身にしみて感じたのは、そういうことだ。
私は恵まれている。
普通に人を愛して、普通にこの社会で生きていくことが出来る。
それだけで、とても幸せなことなのだ。
だから私は今日も、マジョリティとして生きなくてはならない。
生まれながらに与えられた、全ての『特権』を原罪のように自覚しながら。
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