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「自己検閲」について

わたしはこれまで、SNSを利用することもなければブログやnoteといった発信活動をしてこなかった。

理由は単にめんどくさいからであり、それによる弊害は一切なかったといえる。むしろ自分の為に使える時間が増えて、有意義だったかもしれない。

しかし、フリーランスでライターという活動を行う上で、自分が何者であるか、何をしているのかを明確にする必要があるため、1年ほど前から少しづつではあるが「発信」の練習をしてきた。

姿勢を変えると日常の風景も変わって見えるもので、

「新しい店ができたのなら行ってレビューしよう」
「この前食べた料理、美味しかったからSNSにあげようかな」
「初めて行った旅行先、良かったから発信しよう」

など考えるようにはなってきた気がする。

しかし、

「発信」しようと思う一方で、

「これって他の人も行っているのでは?」
「別に新しいことでもなんでもなくない??」
「今更自分が言ったところで意味なくない???」
「他の人がすでに発信してるし新鮮さ無くない?????」
「今更こんなこと言ったところでなんの意味もなくない?????」

など、「発信しない方が良い」理由を探している自分がいる。

そして、結局発信活動のペースが下がっていき、最終的にはSNSを触りすらしなくなっていた。

発信には「価値」がなければ意味がなく、自分ならではの視点やオリジナリティが重要だと思い込んでいたのである。


自分にしか拾えない「音」がある

「サウンドスケープ」という概念がある。

これは聞こえてきた音をひたすら紙に書き出していくというワークであり、大勢で一斉にやることでその面白さは倍増する。

一定時間経過した時、他人とその書き出した音について意見交換すると、人それぞれバラバラな音を拾っていることに気がつく。

ペンの音や紙のこすれる音などは共通としてあるが、「そんな音鳴ってた?」と思う音を拾っている人も数多い。そして、それは自分が拾った音も同様だ。

「自分1人」ではなくとも、少数派の音を拾っている可能性は非常に高い。

逆に、自分には聞こえなかった音があることも、それはそれで個性になる。
なぜならその分、他の音を拾っているからだ。

つまり、人はそれぞれ生まれ持った個性、オリジナリティを持っているのである。

自分が見た風景、食べた食事、見た作品に対する感想は全てが「オリジナル」であり、世界で唯一の意見。つまり「発信」する内容を他者と比較する必要はなく、気にせずどんどん意見すればいいのである。

昨日、とある講義で受けたサウンドスケープを通してこのことを知り、個人的には衝撃を受けた。


その「音」が聞こえると変なのか?

人それぞれ「オリジナリティ」を持っているはずなのに、街頭インタビューでの意見やSNSで発信される内容は「似たりよったり」になるのはなぜか?

それはタイトルにある「自己検閲」が働くからだそう。

日常でエッジの効いた意見や珍しい趣味などについて発言すると、日常会話がスムーズに進まないはずだ。

例えば映画が好きな場合、本当は「とんでもなくグロいホラーが好き」でも、周囲の状況に合わせて「無難な作品」を並べたりする。

他にも、「この意見は少し発言しにくい」や「この趣味の話は一般的ではないから話すことは避けよう」などで、どんどん個性的な話題を省いていく。

これこそが「自己検閲」が働くということであり、多くの人はこの感覚に慣れきってしまっているそう。

そのため、「発信」しようと思っても個性的な意見や内容は自分の中の無意識のふるいにかけられ、一般的な意見しか選択しようとしなくなる。

サウンドスケープの例でいうと、自分にしか聞こえない「音」があるのにその音について発信しようとせず、皆が聞こえているであろう「音」しか意見しないのだ。


個性を表現するために

じゃあどうすればいいのか?

答えは「勇気を持って発信する」しかないだろう。元も子もないが、多分これいかない。

「自己検閲」を少しずつ外しながら、発信、表現していく中で、「ここまでなら大丈夫」や「これはやりすぎ」などのバランスが取れていくのかもしれない。

「こんなこと言っていいのかな?」や「これ言ったら炎上するのでは?」と思う気持ちは強いと思う。特に昨今はSNS絡みの炎上案件は毎日のように発生している。恐れる気持ちが出てくるには十分すぎるだろう。

その気持ちを乗り越えなければ本当の発信者、表現者になれないのかと感じた。

Twitterではライター界隈のつぶやきを見ることが多いが、アイコンと名前を隠すと全て同じ人が言っているかと思うほど似たような内容が多い。

正直、「botか?」「なんで似たような内容を全員が繰り返すんだ?」と不思議だったが、今回知った話で疑問が解消された気がする。

皆「自己検閲」をしているからこそ、似たりよったりの内容を発信してしまうのだ。

出る杭は打たれるということわざがある通り、エッジの効いた意見は言いづらい。だからこそ発言する価値があるのかもしれない。

自分が今すぐできるかというと正直難しいが、少しずつ慣れていく必要があるだろう。日々精進。

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