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ノリノリの日と表現の役割

こんばんは。

ノリノリ

今日はノリノリであった。

朝、6時前に起床し、スケッチがてら散歩に出る。

秋晴れである。世界がきれいである。

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公園の並木をスケッチする。

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「並木」


土手沿いに咲いてたセイタカアワダチソウを、クレヨンで描く。

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「華燃ゆる」


上の絵を描いた時に出たクレヨンの削りカスが勿体無くて、それを画用紙に塗りたくってもう一枚絵にする。

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「Fireball」

勿体無い精神、大事。ぜったい。


3枚も描いたらお腹いっぱい。
毎日こんだけ描けたら良いなぁ。


表現の役割

以前の記事でも触れたが、たまに「アートに出来ることってなんだろう」と考えることがある。


現時点では、「思い通りにならない事を楽しめるようになる」ことが、表現者自身がアートから得られるメリットのひとつではないかな、と感じている。
(作品を作り始める時に思っていた完成図と、完成する作品はだいぶ違う。まあこれは、私の性格に起因する部分が多そうだが、、、)


そして出来れば、制作物に触れた人にも、出来るだけ良い影響を受けて欲しいと思っている。


ただそれは、作品を見る人に対して、感情を強要する事なんじゃないかな?とも、最近考えたりしている。

見た人に「こんな影響を受けて欲しい」と考えながら作ったものは、それを見た人からすれば凄く五月蝿いものになるんじゃないかな、と。
(勿論、デザインの場においては、人を良い方向に導く事は必須でしょうが。あくまでアートにおいては、、、の話です。)


でもせっかく描くんなら、良い絵だって思って貰いたいなー。
(結局はせめぎ合う表現欲と承認欲。note上では正直に。)


そして、見た人がどうこう、、、という前に、

「自分の表現したい事と正直に向き合うのが、物凄く恥ずかしい。」

という問題。

さあ心を開いてごらん!と熱血教師よろしく自分の心に語りかけても、長い時間をかけて捻くれた心の鍵は、当の本人すら開けられぬ始末である。

何が仕舞ってあるのか分からないという点では、廃墟の冷蔵庫みたいなモンである。
そのままそっとしておくのが、本当は世のため自分のためかもしれない。

まずは長い時間をかけて自分との信頼関係を築く必要がある。
何十年掛かるのか。面倒くさいから早く出て来い俺。


結局の所、私の中でのアートは、自分と向き合う為のツールって要素が多いんだろうな。
そんでそれを旗みたいに世界に振って、自分と似た人を探してる。


何だか話が迷宮入りしそうなので、今日はこれまで。

読んで下さった方、ありがとうございました。

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