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短編小説『ウサギちゃんは残酷な月』

 「字が汚いねと君に言われて、僕は救われた気がしたんだ」  ──  僕の無意識は、この経験をテムズ川の深いところから、音も立てずに掬い上げてきた。数秒経って、僕の意識がテムズ川から乾いた土色の机へと戻ったとき、僕は思わず立ち上がって「そうだ、彼女に手紙を書こう」と思った。どこか見えないところへ行ってしまいそうな浮き立つ観念を捉えるために、僕は衝動的になって、机の右隅にある円柱状の白いペン立てから万年筆を、本の散乱する六畳半の床から紙を取り上げ、机の中央に並べるけれども、万年筆を手にとった瞬間に、ざらついたA4用紙が僕の衝動性を荒々しく拒否したのだった。そうだった、僕は手紙を書くのが下手だったんだ。手紙も字も下手だから、これまで一度たりとも手紙を書いたことがなかったんだ。僕は黄ばんだ椅子に深く腰掛けて、ヤニの染み付いた天井を見上げる。天井の方もまた、まるでヤニが滴り落ちてくるみたいに淡い液状の眼をして僕を見つめていた。ああ、フィレモンでも吸って酔っていたい。僕はそう呟きながら視線を手元に戻した。しかし酔っていちゃ手紙なんてかけないよな、フィレモンはタバコみたいなものじゃないんだ。吸うとアルコールみたいに脳が揺れてしまうんだ。僕はフィレモンに頼らず、素面の本当の自分で手紙を書きたい。

 でもわかった、気持ちを牽制するために、自分の欲に譲歩しようじゃないか。僕は手紙を書き終えたあとの自分がすぐに吸えるよう、先にフィレモンを巻いておこうと思った。机の左隅に置いてある、売人から買ったばかりのフィレモンのパケを万年筆の横に寄せる。手の内にすっぽり収まる大きさの銀のグラインダーを使って、机の端でフィレモンを細かく砕き、右膝下の滑りの悪い引き出しから取り出した巻紙で慎重に、裏巻きで巻き上げた。最後に巻いた巻紙に湿った舌で糊付けをし、巻紙の余った部分を引き裂いた瞬間、僕は自分の身体のどこかから、封筒の封が切られたような乾いた音が聞こえた。
 今なら書ける気がする。僕はその音を合図に万年筆を取り上げた。無骨な手先が紙の上を流れ、文字が空間に放たれる。宙吊りとなった内的観念の糸が切られ、落下した観念が僕の字と結合して現象の轍を辿って行った。そこにはまるで、半自動的に紙面を驀進しようとするシュルレアリスト的な僕の無意識と、油絵みたいな立体性の僕の文字があった。


 『字が汚いねと君に言われて、僕は救われた気がしたんだ。だけど君、僕たちが初めて言葉を交わした記念すべき第一声がそれだなんてびっくりだよ。思えば出会いも奇天烈だった。食堂で文学のレポートに追われていた日、僕の知らぬ間に君は隣に座っていて、正面を向きながら横目で僕のレポートを眺めている。僕の視線に気づいた君は初対面の僕に「字が汚いね」なんて言うんだから僕も少しはカチンと来たけれど、君は笑顔で僕の字を貶してくるんだから、なんだか僕も嬉しくなってね。まあとにかく、それくらい自然で不自然な出会いだったんだ。
 あの日から何年経ったのでしょう。一緒にテムズ川のほとりを歩いた日を覚えているかな。あの日のテムズ川は閑散としていた。川辺には壊れたテントだけが意味ありげにぽつんとあって、それ以外には何も  ──  人影も音も、それから水面に浮かぶタバコの吸い殻やサンドイッチの包み紙さえなかったんだ。どういう会話からそう繋がったんだろう、多分僕たちの出会いについて二人で話し合っているときだった。文学部を出た君は「フッサールの言う志向性ってやつでしょうね」と言ったんだ。それに対して、無知を隠そうとした僕が、何でも知っているみたいにして「そうなんだよ」だなんて言ったその時だった。風が、僕たちの意識の隙間を縫うように、音もなく吹き渡った。草木すらをも揺らさない怯えた風の訪れで、テムズ川には静かな波が立ち上がり、それに気付いた君の癖っ毛だけが宙を波打って、僕の顔に降りかかってきたんだ。それがなぜだか、僕にはすごく愛おしく見えて、僕だけ一人でくすくす笑ったんだっけな。』


 僕はどうしても我慢ができなくなって、ここで手を止め、巻いておいたフィレモンを口にくわえた。そしてポッケから、キリスト像の彫られた金の痛々しいジッポを取り出し、乾いた唇に咥えたフィレモンを、疳性な眉毛を添えて丁寧に炙り始めた。着火して数秒間、フィレモンを強欲に一吸いすると、僕はベッド脇の透明な灰皿へとそれを静かに移し、それから急に、釣り竿で後ろに引っ張られたみたいに荒々しくベッドへ飛び乗った。太公望の僕の枕が、僕の頭をテムズ川から釣り上げる。枕が僕を歓迎するものだから、僕は咄嗟に喜びの狼煙を吐き出した。僕が吐き出したのか、枕に吐き出されたのか。煙を吐き出してしまった後の僕には区別の検討すらつかなかった。枕元にはスピノザだったりパウル・クレー、それからハイデガーの本が大量に、積んだのか積まれたのか、なんとも言えない形で積まれていて、まるでプレートを成しているかのように静謐で尊大なものに見えた。僕は本の中に手紙に役立つものがあるのではないかと思い立って、地球の引力に縛られる僕の眼球を、上昇する煙から一番下の「エチカ」へと移すものの、今度はなぜか、偉大な本たちよりも粗陋な煙の方が気になり出して、いつの間にか僕の視線は再び煙に引き戻されていた。けれども、周回遅れの僕の意識が上空の方へと戻ったときにはすでに煙は彼岸に消えていた。
 煙の不在が感覚の優位性を組み替える。僕は六畳半に瀰漫するフィレモンの苦い匂いに気がついた。匂いの源に視線を戻すと、透明だった灰皿がフィレモンの灰で白く濁っている。アイツの脳みそみたいだ、と僕は思った。このフィレモンを売ってくれた売人の顔を思い出したのだ。僕が吸っているこのフィレモンは「博士」と呼ばれる男から買い付けたものだ。博士はこの街では有名なフィレモンの売人である。彼は裏で売人をやりながら、表では女優学の権威である「レマン学会」の役員も務めている  ──  そういうわけで「博士」と呼ばれている。レマン学会は女優学の中心的存在で、メディアの露出も激しい。それ故、レマン学会の役員が違法な嗜好品を売り歩くのは非常に危険なことだった。
 僕は木星にいるみたいに煙たく重たい空間で上半身を起こした。眼が熱く充血している。上を見上げると、天井のヤニが液化して滴っているのが見えた。けれども僕の腰は微々とも動こうとしない。まるで、長時間煮込んでようやく完成したトマト料理を、床に置いた洗濯物の上へとひっくり返してしまったときのような、どうしようもない達観の域に僕はいたのだ。
 涅槃寂静の精神で灰皿からフィレモンを取り上げ、もう一吸いしようと口元に当てたその時、誰かが「博士がお前の彼女を罵っていたぞ」 と僕の耳元で囁いた。 誰が喋ったのかわからない。一瞬、自分が喋ったのかと錯覚した。足りない頭で五感を辿っていったのち、下から3つ目の感覚で気が付いた   ──   喋っているのはフィレモンだった。
 

 ただの嗜好品なくせに喋りかけてくるこいつに僕はいつもうんざりしていた。一人で心地よく吸いたいだけなのに、喋りかけてくる。吸われる側なのに辟易するくらい饒舌で早口で恩着せがましいんだ。お前は吸われるためだけに存在するんだ、僕はそれ以外に何も望んでいない。フィレモンは僕の煙そうな顔を見ようともせず続けた。「博士は言ってたよ、『君のウサギちゃんにはエリオットみたいな自己犠牲がなかった、あるいはウォーホルみたいな商業性がなかった。彼女はアラン・チューリングか?ニコラ・テスラか?そもそも彼女にはラカンの言う鏡像段階というものがなかったのか?』だってね。俺もそう思うよ、なんだって、君の彼女は純粋過ぎたんだ。」
 僕の彼女は女優をしていた。みんなからはウサギちゃんと呼ばれていた。ウサギちゃんとしての僕の彼女は女優だったから、レマン学会に席を置く博士には彼女を批判する権利と義務があった。ただ、奇妙なことに博士の批評を耳にするのはいつも、フィレモンを通してであった。僕は博士が喋っているところをほとんど見たことがなかったのだ。唯一口を開く機会があるとすれば、彼とフィレモンの売買をするときだけだった。
 また彼の碩学ぶりも実に眉唾であった。彼はおそらくレマン学会の受け売りで僕と彼女を傷つけたかったのだ。ただし、彼の言い草は僕たちを無意味に傷つけるだけで、その半分は至極真っ当な意見であったのも事実である。確かに僕たちは、レマン学会という観客によって軌道を支えられていたのだ。彼らのいない世界が仮にもあったとするならば、僕たちは哀れに滅んでいたと思う。自分が見えなくなるまで膨張し、燃料も無いのに周りのすべてを飲み込んで、そのまま燃料切れで急激に縮小して輝きを失ってしまう白色矮星みたいに、酷く哀れに。しかし博士のそれは行き過ぎた職権行使であるとも言えた。すなわち、真っ当な五割の批判で僕たちを成熟させ、いいがかりとも取れるような残りの五割で僕たちを隘路へと向かわせたのだ。


 僕の意識が過去から六畳半へと巻き戻る。過去と現在が混線するこの状況に意識が追いついたのだった。「記憶というのは不完全であるから美しい」と彼女がよく言っていたのを思い出す。不完全であるから余白が生まれ、不完全であるから人を発見へと駆り立てるのだ。けれども今は、その不完全さが煩わしかった。その可能性の果てしなさが厭わしかった。無意識こそがこの世で一番、自然で不自然な出会いの場だと今の僕には思われた。
 ため息をついた。目の前で白い呼気と灰皿の煙が入り混じり、渦を巻いて立ち昇る。僕は空中の塵を巻き取る小さい竜巻を眺めながら、手紙を書く前にフィレモンを巻き上げておいたことを悔いた。酒を飲んだ時みたいに頭が掻き回される中、ベッドに座ったままの僕は、机上の万年筆と紙を取り上げて、枕の上で続きを書きあげることに専念した。けれどもそこにはもう、フィレモンを吸う前の僕の立体性など存在しなかった。


 『博士と出会う前の僕は、君を盲目的に愛していたんだ。その時の僕の心はまるで、水面に落としたタバコの吸い殻やサンドイッチの包み紙が一瞬で見えなくなるくらいの濁流で、オックスフォードからレディング、そしてロンドンへと一寸の淀みもなく滔々と流れるテムズ川みたいに、ただただ、かの偉大なる大海原だけを目指していたんだ。だから博士がいくら君を批判したとしても、僕の気持ちは変わらなかった。むしろ批判されればされるほど、動脈を流れる主観と静脈を流れる客観が互いに混淆し、より一層君が愛おしくなった。
 だけど、あれはいつのことだろう。僕の気持ちがぶれ始めたんだ。臨界を超えた先には転倒があった。博士がフィレモンを通してテンニエスの言うゲマインシャフトについて語っているときだった。彼らが僕の精神、それから肉体までもの組成を変えていくのをありありと感じたんだ。僕はそのことを良くないことだと認識するのが遅かった。気がつけば僕の二つの盲目は、反対に何十万もの衆目へと変容し、僕の肉体も精神も、主観を一切交えることなく君を客観視しようとする卑しい無数の目の集合へと成り果てていたんだ。
 そのことを意識し始めた頃だっただろうか、自分の字が綺麗になり過ぎていることに僕が気付いたのは。僕の字は、僕の気付かぬうちに流れの淀みを失くしていたんだ。君は、僕の字が綺麗になったから死んだんだ。そうだろう?
 だけど聞いてほしい。今の僕は変わろうとしているんだ。筆を手に取る数時間前、一人でテムズ川を歩いていたときに僕は新たな発見をした。それは川のほとりに立つ真っ黒なテントが眼に入ったときだった。眼の焦点が絞り込まれる一瞬の刹那の内、まるで天啓のようにふと、君が話していた「志向性」という言葉を僕は思い出したんだ。その瞬間、独立する四つ角の点がすべて繋がって、浮かび上がった一つの面に下から支えられた気分になった。僕は川辺に張ってある、新品みたいに小綺麗な黒テントを見つめてこう思ったんだ  ──   ああそうか、僕は周りと違う何者かになりたくて、ただただ何かについて考えることでインテリを気取っていたんだ。僕は考える対象に、決して答えの出ない永遠の命題を選択し、例えそれに答えが出ないことを知っていたとしても、ただそれについて真剣に考えて、考えて、考えて、考え抜いた先にある答えの出ない悩みと苦しみを噛み締めて、その作為的なわざとらしい苦悩の道中に落ちている、陰鬱な甘い蜜をちゅうちゅう吸って苦しんでさえいれば、きっと他の奴らとは違った存在になれるんじゃないのかって、本気でそう思っていたんだ。一生涯、何かについて悩み、苦しみ、葛藤し続けていられるように、そして他のみんなと違う何者かになるために、決して答えの出ない自分自身というものを、その思考の対象の中心に据え、ただただ苦しんでいる自分に自惚れていただけの格好だったんだ。僕の悩みは他の奴らの悩みとは違う、僕の悩みは崇高で、美しく、神聖で、果てしなく、哲学的、普遍的、社会的に、どこまでも意味があるものなんだ、僕の悩みは宇宙の悩みだ、歴史の悩みだ、人間普遍のニーチェの悩みだ、そして、こんなにも深く、重く、真剣に、考え抜いてきたのに、全く答えにたどり着かないこと、それこそが僕が他の人間とは違う何よりの証左なんだって、そう信じていたんだ。そうさ、僕は似非インテリだ。ペテン師だ。ゴミ小説家だ。自分と他人を騙す詐欺人間だ。僕を哀れんでくれ。罵ってくれ。あざ笑ってくれ  ─── 』


 フィレモンのせいで、文体に勢いが付きすぎたことに気がついたときにはすでに、僕は手紙を右手に、フィレモンを左手に握って、家の外へと走り出していた。僕の目指す場所はただ一つ  ──  偉大なるテムズ川だった。家から小一時間の場所にあるテムズ川へと、僕は一心不乱に走った。
 誰もいない森の中を駆けてゆく道中、木々の隙間を彩る夕焼けの空には、鳩と鷲がじゃれ合っているのが見えた。赤く染まった木立の根本では、ぶくぶくに膨れ上がった鼠が土手っ腹を引きずり回しながら走っているのも見えた。野原に抜けると、草木の生い茂る端に、クラゲみたいな銀竜草があった。銀竜草は真っ赤な空を反射して不穏の瘴気を帯びていた。僕はわざわざ端を通って銀竜草を踏みつけて、汚い灰色のドブネズミみたいに野原を駆け抜けた。
 ようやくテムズ川へとついた頃には、日が暮れていた。真っ暗な空に浮かんだ満月を反射するテムズ川の水面には、やはり何もなかった。風も音も、草木の揺れる様子すらなかった。川辺には壊れかけたテントだけが意味ありげにぽつんとあって、そのテントの中では水死した鳩と鷲が横たわっているのが見えた。自然で不自然な出会いだと思った。
 僕はテムズ川の中へと右足を踏み入れた。銀竜草を踏みつけた茶色いブーツの軋み音がやたら大きく鳴り響く。すかさず左足を踏み入れる。今度は水中の砂がこすれる嫌な音が耳に残った。僕は火の消えないようにそっとフィレモンを水面に浮かべ、ゆっくりと目を閉じた。ポッケから取り出したキリスト像のジッポを左手に、手紙を右手に握りしめ、僕の足は一歩ずつゆっくりと、波面が大きくならないように静かに水の中へと入っていく。音のしないまま、徐々に徐々に、そうしてやがて、僕の頭からつま先までもがすっぽりと水中に収まったとき、僕はそのまま無抵抗になって、深い川の奥へと沈み込んだ。地球の引力に導かれるままに水の中を落ちてゆく僕は、目を開けて上空を見上げた。美しき満月が見える。僕の周りを取り囲む無数の水分子たちが僕から光を奪ってゆくと同時に、水中から見える丸い月だけが僕に光を落とし込んだ。
 沈みゆく僕の肉体と精神と魂は、水の中で静かに静止する満月を眺めた。僕は月を眺めている。いや、違う。僕が月を眺めているんじゃない、月が僕を眺めているんだ。いや、それも違う。これは月じゃない。井戸だ。僕が見ているのは満月なんかじゃない。僕が見ているのは井戸の丸い入り口だ。僕は井戸の中にいるんだ。



 僕の意識が消えてなくなろうとしたそのとき、井戸の入り口を覗いて微笑む一人の女性がいることに気が付いた。僕は抜けかけたプラグを急いでつなぎ直した。脊髄の電位を背中に感じ取る。あと数秒で僕の視界は無くなると思われた。焦る意識がすみれ色へと染まる頃、紫煙みたいに立ち昇る僕の意識が必死に凝らした眼の中に写ったのは   ──   死んだはずの僕の彼女だった。

自然で不自然な出会いだ、僕はそう思った。



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