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何色にでもなりたいけど、染まりたくない

そういうふうに思うことがある。

被写体や身体表現をしながら生きていくことにした経緯は前記事に書いたけれど、そういった一面もあって私は今ここに在る。
ちなみに前記事に記した私の憧れるコントーショニストとこの記事に記す「成りたかったもの」は別であることを片隅に置いて読んでもらえると嬉しい。

前記事ではふとした憧れからザックリと被写体を始める経緯を書いたけれど、これは そういえばこんなこともあったな〜 っていう何でもない過去語りのようなものだと思って欲しい。

私は映画や演劇を好んで楽しむ。
非常に詳しく語れるほどその世界に堪能ではないけれど、個人的なこだわりのような視点を持っている程度に好きくらいの熱量だ。

ラース・フォン・トリアー監督の映画に好きな作品が多い。
中でもニンフォマニアックやダンサーインザダーク、アンチクライスト、イディオッツなどは鑑賞した中でも特に記憶に根強く残っている。

賛否の分かれる映画が多いが、私は彼の撮る生々しさが故の強烈さ、病的だが何処か共感してしまう人間性の描き方が好きだ。

演じることとは、間接的に他人の人生を疑似体験できるもののような気がしている。
そして鑑賞することは、誰かの人生を覗き窓からこっそり覗くような、そんなワクワク感がある。
私個人としては、テーマが薄暗くて触れづらいものほどその背徳的快楽が大きい。

狂気的な演技力は人を魅了するものだ。
思わず目を瞑りたくなるような残酷な筋書きも、ドラッグのように惹き込まれてしまう。

被写体を初めてから考えていたのは、映画と写真に通ずる覗き窓のような視点と、自分以外の誰かであることを疑似体験できる演劇・物語性についてである。

自分を捨てて何者かになりたいと感じたことのある人は世にどのくらいいるだろう。
私は声優や舞台俳優に憧れたこともあった。
本業である方には大変失礼な動機ではあるが、演じることを現実逃避のひとつの手段として感じていたからだと思う。


かつて自分の生きた長さを鑑みれば比較的長く愛した人がいる。
訳あって、その為には自分以外の何者かに染まらなくてはならないという強迫観念に駆られたことがあった。

本来人生は一度きりのものだ。
自分の生まれ持った特性を捨てて他人になり代われることは、時として幸せをもたらすことが出来る。

しかしその時間が長く続けば続くほど地獄だとも思った。

何もかもにその「色」がかかるのだ。
それはまさに加工アプリや映画のフィルターのように。
憧れに近づくことも素敵だ。愛する人との「好き」の共有も素晴らしいことだ。

でも、本当にそれは自分の選択なのか?
私は今私として生きられているのか?
これは与えられた役割の中で行き着いた思考なのか、それとも本当の自分自身として選択できた物事なのか?

日常が全て疑念に変わった。

生きているだけで人は一日に何度も選択をするという。
その全てに疑問を持たなくてはならなくなる。
考え方、嗜好品、衣類、容姿、多くのものをそれに縛り付けてしまう癖がついた。

演技と本音の境界が分からなくなる、という状態に陥った。

物理的には生きているのだろうけれど、これでは「私」が生きているのか「役割」が生きているのか何もかも分からなくなって、ただ息を吸って吐くだけでも苦しい。

試行錯誤や自暴自棄、迷走や悪行、ひとしきり黒歴史的な行動を辿ったような気がする。
人に話せないようなこともまぁ、あった。皆そういうものかもしれないけど、皆だなんて括ると色んな人から怒られそうでちょっと怖い。

その間はとにかく濃縮された思春期のような数年だった。
私の思っていた大人とやらとは、随分とかけ離れているなと感じた。華の20代、とは。
見事に黒歴史を描きまくったアラサーだと思う。

そんなこんなを数年も経て、今やっと自分らしく在ることを受け入れられつつある。

憧れだけを追いかけてきた訳ではなくて、当時はなんだかその「何か」に成らなくてはならないという自分の中の狂気がさらに自分を狂わせていた気がする。

まず抜け出そうとした時、取捨選択に悩んだ。
本当に自分が欲しているもの、好むものの断捨離だった。

台本通りに生きようとしていた自分を、どうにかアドリブに引き戻そうとする作業のようだった。
そもそも人生なんて一発録りのアドリブの寸劇みたいなものなのに、自分事ながら奇妙な話だなと思う。

初めの頃はどうしても「何か」に引っ張られてしまうような気がして、その逆を選ぼうとしたり足掻いてみたけれど、結果的に言うと出会い方を誤ってしまっただけで、好きな物は好きでいいのだという考えに至った。

人間、これだけの数がいるのだから誰とも何も被らず生きることは難しい。

自分の心がいくつもあるような気がして、その統一にものすごく時間がかかったし、今でもなんだかおかしいなと不調を感じることがある。

そういう時は何も音を流さず、誰の話も聞かず、ただお酒をぐいっと飲んで深めに煙草を吸う。

頭がほんのりとボヤけて、その日の幸せだったことだとか自分の好きな物について思いを馳せることができる。

この方法が誰に対しても正解とは思わないし、多分健康に悪い。

けれど、今のところの私の中の最適解は「考えて足掻きまくるよりも一旦じっとしてみること」だ。

お酒を飲むと人が変わるとか酒癖どうなどとは言うが、結局のところ酒に酔うと上っ面が取り繕えるほど理性を保てなくなるだけだと私は思っている。
それを人本来の姿と形容するのはまた違うとは思うけど、シラフよりは純度の高い本音が自分の中にも見える気がしている。

バカ真面目に何日も悩んでいたことを、意外と素直に「なんだ、これで良かったじゃん」と気づけることが出来たりする。

本当は嬉しかったり悲しかったりした事なのに目を背けていた物事に気づく。

泥水をすくってすくって濾し取った後のやや透明な脳内で、一人反省会をする。
人間関係は広く浅くも、深く狭くもありたい。
自分を大切にしたいし、最低限その自分を大切にしてくれる人は大切にしたい。

被写体や表現者として求められる内容にはしっかり応えたいと思う。

それでも自分の中でブレずに持っていたい価値観のようなものを、最近感じている。

欲張りなので、大人っぽくも子供っぽくも、可愛らしくも汚らしくも、セクシーでもヘルシーでもありたい。
色んな美しさや芸術表現を体験したい。

カメラマンの方々と被写体として関わることは、その方たちの美的感覚や芸術表現の世界に混ぜてもらうことだと考えている。
でも、自分の中で踏み越えたくない部分や入り込まれたくない部分も言葉にできないが存在することを知った。

嫌だとかこれは無理だと難色を示すのは悪い事では無いのだと、遅ればせながら気づいた。

何色にでもなれるけれど、他者から染められるのではなく自分で変幻自在に色を出せるようになりたい。
そういうカメレオンみたいな生き方が今の私の目標。
受動的ではなく能動的に演じ、色を変える人間で在りたい。


ポートレート撮影は程よく現実の自分から別の人生への旅行が出来たり、逆に自分そのものと向き合うきっかけになったりする。

コンセプトは様々でも、主軸として自分の存在がはっきりとここに在ることが安心できて心地の良い世界だ。
私は写真を撮ったり撮られるのが好きだなと再確認できた。


色んな表現を経験することで、自分なりの色を見つけていけたらいいなと思う一日だったように思う。
そんな今日の衣装は真っ白なワンピースを着ていた。
おろしたてで、ふわふわとしていて、普段は絶対に着ないような幾層もレースの重なったワンピース。

キャンバスみたいでなんだか心地よくて、幸先の良い5月の幕開け。
今年は自分をどんな色に染めようか。



タイトル画像: ショウカクハジメ様 撮影


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