服が好き
私は金銭が許す限り、毎日でも違う服を着たいと思う。
人と違う格好をしたいとも思う。
メイクも流行のものよりは、その日の自分の色を表すものをメインテーマに施したい。
ファッションは自己表現のひとつでもあり、その日の自分を他人にどう見せたいかという重要な部分も担ってくれる。
被写体としては、その日のカメラマン様の創りたい世界を最大限描写できるような役割も持っている、と考えている。
私にとっては衣類やメイクの一つ一つがまたキャストでもあるのだ。
成りたいを叶えてくれる、ひとつの手段。
最近Instagramの中で密やかに(?)流行し始めたthreads。
Twitterよりも長い文章が書けて、所謂Twitterノリのようなものも今のところは存在していない。
noteはある程度の思考と構想を重ねた上で、きちんとテーマを決めて言語化されたものをアウトプットするツールとして私は利用させてもらっている。
threadsはその一つ手前というか、ある種のメモ書きのようなものかもしれない。
今日、端的に言えば「人生は一本の映画のようなものとして認識している」というような独り言をぽつぽつと書き出していた。
実物の頭に比べて、脳内は宇宙のように広い。
思考の繰り返しの結果ボコボコと色んな欠片が放たれ、脳内宇宙にスペースデブリがよく散乱する。
放たれて宙を彷徨うゴミや欠片に私はしょっちゅう目や心を曇らせる。
例えと言い方が悪いが、そのゴミ掃除も兼ねて私は言葉をアウトプットして思考を整理して、心を落ち着ける癖がある。
映画には基本的に主演・主人公が存在していて、私にとっては私は監督兼主役だ。
なんだかとても大層に聞こえるけれど、私は恋人や周りの友人、通りすがりの名も知らない人々もそれは同じと認識している。
主役はその人生を送る第一視点の人、その周囲の大切な人から順に大きな役割を持つキャストたち、エキストラ…というような具合だ。
特に計画的で自律的な人々に対しては、脚本家までも自分で請け負っているようにも感じる。
なるようになれ思考の私には難しいことなので、本当に尊敬する。
最初の話に戻るが、どうせ通行人として他者の映画に映り込むのであれば、私は自分が自分らしい格好をして映り込みたい。
エキストラの分際でなかなか身勝手で傲慢だとは思うけど、やっぱり自分のベストで映り込みたい。
私がどのような格好をしていようと、公序良俗に反していない限りはエキストラの私が好きな服を着ていても彼らの作品に与える影響は少ないと思っている。
勿論、そうでない場合もあるかもしれないけれど、無数にいる人間全てに配慮をしていたら全身初期アバターのような服装をするしかなくなってしまうので、そこはちょっぴり許されたい。
あくまでも私の思想なので、賛同されても否定されてもいい。
共感を得たいとはこれっぽちも思わない。
今ここに書いているのは私が主観のスタンスだからだ。
好きな服を着てそこに自分なりに合わせたメイクをすると、ふつふつと自己肯定感が上がる。
一日の彩りがパッと広がる。
全ての身支度を終えた時、ドアノブに手をかける時、少しワクワクするその瞬間が私は好きだ。
自分大好き人間のような言葉の羅列になってしまった。
でも私はそれで良い。
誤解を招くのかもしれないけれど、私にとっては別の意図でも受け取り手がそのように受けとったならばそれは一つの事実だと思う。
自分の事が大好きな瞬間も大嫌いな瞬間もある。
自己肯定感が下がりに下がって、自分を殺めてしまいたくなる時も数え切れないほどあったし、きっとこれからもそれと戦わなくてはいけない時間が数多ある。
そんな時間よりも私は「自分が大好きな時間」のほうが楽しいから、それの比率を増やしたい。
日本は昨今少しずつ変わりつつあるが、それでもなお「自分の事が好きな人間」を忌避する人が多いように感じる。
人に迷惑をかけない範疇で自分を愛でて、自己顕示欲を満たして自分の人生を豊かにすることは特段悪いことではないのではないか。
勿論それは手段によりけりと思うが、私はファッションにおいてはそれは許される範疇にあると考えている。
TPOの遵守などは最早当たり前なので敢えて言及しないけれど、個々の外見の在り方やファッションは自由だ。
結局何が言いたいかと言うと私は服が好き。
服が好きな私が好き。その服を着るために体づくりをする私が好き。
エキストラとして映り込む瞬間に私がベストだったら、もう最高に嬉しい。ただそれだけのくだらない記事である。
いつでも好きな自分になれる手段として、被写体をさせて頂く為に変身する手段として、
私は衣類やメイク道具を大切にして生きていきたいと思う一日だった。
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