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人間の一生はドリップコーヒーと同じ。

私は今「人生論全部読む。」という企画をするために、武者小路実篤著の「人生論」を読んでいるのだが、その本の中で人間の死について触れていた。彼曰く、人間が死を恐れるのは、死ぬ資格を持っていないからであるという。一応書いておくが、この本は戦前の1938年に出版されており、前時代的な内容が多く含まれるが、今回はそれを批判したいわけではないので触れない。

人間が死を恐れる理由は、その人がまだ死ぬだけの資格がない時に起こるのだ。生きて働ける余地のある時に人は死を恐れるのだ。だから死の覚悟が本当に出来た時は、死の恐怖は姿をけす、その覚悟の程度に比例して死の恐怖のきまるとも言える。

武者小路実篤,人生論,1938,岩波新書,105p

健全な死は安らかな死なのだ。無理に死ななければならないから死が恐ろしいのだ。だから死の恐怖を味わうことは、その人がまだ生きてしなければならない仕事をしていないからだ。生きている内にその人がすること命じられていることを仕上げたら、その人は死を許されるのだ。

102p

なるほど、確かにそうかもしれない。長寿の老人が老衰で死ぬ時、受け入れられずに泣き叫ぶなんて言う話は聞いたことがないし、僅かな空腹や衝撃で泣き叫ぶ赤ちゃんたちは生に執着しているように見える。しかし彼の論理に当てはまらない人達がいる。それが学生の自殺者や、いわゆる過労死に分類される、業務の負荷による精神障害を原因とする自殺者だ(過酷な業務を起因とする心不全や脳疾患による死亡は死の恐怖と直接的な関係はないため、今回は除外する)。彼らは「まだ生きてしなければならない仕事」が残っているので、死の恐怖を感じていると考えられるが、それでも死を選ぶ人は最終的なゴールである「健全な死」の道半ばで、リアイアを選んだということのなるのだろうか。
いや、彼らも死のうと思って生きているわけではないと思う。学生も社会人も、未来のために学び、未来のために利益を生み出している。ではなぜ、死を自ら選んでしまうのか。それは単純に、生が死以上に絶望であるからであろう。絶望する事柄は故人それぞれであるだろうから、断定はしない。しかし、必ず死を選ぶ原因があるはずだ。

そんなことをコーヒーを飲みながら考えていたら、人間全体の死生観を貫く何かを少しだけ考えついた。それが表題の「人間の一生はドリップコーヒーと同じ。」である。

私達は焙煎され、粉末となりフィルターの上に乗せられたコーヒー豆である。どの豆も、産地や味は異なるが新鮮で、とても良い香りのする豆。そこに熱湯が注がれる。この熱湯は私達の頭の中に入ってくる情報や経験、インプットである。ちょうどよい温度でゆっくりと蒸らしながら注がれれば、フィルター、つまり私達の行動や言語や感性を通し美味しいコーヒーとしてマグカップに落ちていく。そして出来上がった、私達の人生の成果物であるコーヒーを次の世代が味わい、それを超えた素晴らしいコーヒーを淹れようと一生をかける。しかし、ここが難しい。注がれるはずの熱湯が微温かったり、油が注がれたりすれば豆の良さは引き出せない。一滴も注がれなかったらコーヒーは抽出されないので、豆が存在する意味はなくなってしまう。また一気にお湯が注がれ、フィルターを通り過ぎる前に上から熱湯が溢れてしまえば、そのコーヒーは薄くなり、粉末が混ざってしまう。それを防ぐために熱湯の入ったポットの先端でフィルターを突き破ったりなんかすれば、出来上がったコーヒーはもはやドリップコーヒーとは呼べない代物だ。

私達も、周りが自分の敵ばかりで、常に悪口を言われたり暴力を振るわれていれば、死んだほうがマシだと思ってしまう。周りから何も必要とされず、誰とも話さずに居続ければ自分の存在意義を失ってしまう。毎日誰かに酷使され、忙殺され続ければ、自分という存在は破壊されてしまう。

この死生観は私が勝手に思いついたものだ。しかしここまで書いてわかったことは、人生というのは思った以上に外的要因の影響が大きいことである。フィルターは自分で作ることができる。しかしそれ以外のインプットは多少選択出来たとしても、大きな割合を占めるものは自分では選べない事が多い(家族、住む場所、義務教育、そしてこれら3つを起因とするいろいろな出来事。この3つすら生まれながらに持たないこともある)。

私にはこの事態を解決する方法は思いつかないし、相対主義の世界では永遠にこの課題がつきまとうと思う。江戸時代の封建社会であれば、私とあなたを比べる必要はなく、大富豪と大貧民がいることが当たり前。すべてやることは決まっていて、失敗すれば最悪、切腹して責任をとって終わり。個人は重要でない。しかし今はそうではない。私とあなたが違うのは勿論、誰一人として同じ人間は存在しない。何を学び、何を残すか、全て個人に委ねられている。だから私達は、与えられたものでどうにかして次の世代が美味しく飲めるコーヒーを命をかけて淹れるしかない。同じ今を生きる皆、頑張って生きていこう。

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