悲鳴や叫び。私の体験した【3.11】東日本大震災について全てを話します。
今まで誰にも話してこなかった、私の体験した3.11の全てを話します。
こんにちは、悠人です。ごくごく普通の20代サラリーマンです。
最近地震が多く不安な日々が続きます。実は東日本大震災を体験しているので、今回は私の体験談をお話します。誰にも話してなかったあの日の事を。
1.本当に、本当に何も変わらなかった日常。
2011年(平成23年)3月11日。
行ってきます。
私は当時中学生。卒業式をしている学校も多かったのですが私の学校はまだ普通に登校でした。
家族に挨拶を済ませ、いつも通り学校へ向かう。
楽しみは好きな子に会える。友達との時間。体育。それぐらいでした。
おっすー、昨日のテレビ見たー?
友達と合流し他愛もない会話をして学校へ向かいます。
よっしゃ!今日体育あるじゃん!!!マジ楽しみー!
いつも通り勉強をして、給食を食べ、昼休みに友達とバカな事をして遊ぶ。
今思うと最高に楽しい時間でした。
5時間目。ついに体育です。体育館はボロくて不気味でした。
でもそんなの関係ありません、みんなで本気になってバスケットボールをしていました。私も、好きな子が見ていたので全力でやっていました。
授業が終わる頃には、もうヘトヘト。友達とも学校が終わったら遊ぶ約束もしました。しかも、私の好きだった子も来る事に!めちゃめちゃテンションが上がっていました。遊ぶ体力を温存する為に残りの6時間目の国語は寝て過ごそう。そう思っていました。この6時間目が終われば、また遊びの時間だ!
2.響き渡る悲鳴と叫び。
国語の教師は少し怖い先生でした。
なので私はバレない様に寝て、周りの友達も本を読んだり、女子は手紙を回したり、各々先生にバレない様に楽しい時間を過ごしていました。
だけど、途中でムードメーカな友達を中心に授業が盛り上がっていたので私も起きてみんなと盛り上がって話してました。
授業は嫌いだけど、こういった雰囲気はすごく好きです。
好きな子も楽しそうに笑ってました。
「おーい、お前ら少し静かにしろ授業中だぞ!」
そういう先生も、少し楽しそうでした。
「~あれ、なんか揺れてね?」
突然、誰かが発した言葉。シーンとなるクラス。
あれ、ほんとだ。
そう思った次の瞬間。
ドンッ!!
今までに感じたことのない大きな揺れ、何が恐怖か、それは今まで感じた事のない大きな揺れなのに、その揺れが次第に大きくなってきている事。
「おい!お前ら全員机の下に隠れろ!!!」
その先生の一言を境に、クラス中で一斉に声が、女子生徒の悲鳴が響き渡りました。
「どうなってるの!?」「これマジでやばくねーか!」「助けて助けて!!」「痛い痛い痛い」「怖い怖い怖いよ」「ここ3階だぞ!壊れたら終わりじゃねーか!!」
私が印象に残ってるのは上記の言葉。人の声や言葉に、さらに連鎖して恐怖は倍増していきました。
誰がしゃべってるのか、叫んでるのか、わかりません。
私も机の下に急いで隠れます。後ろの席の友達が話しかけてきました。
「お前、○○○○!」
大きな揺れに伴い、教室の軋む音、物が落ちる音、周りの悲鳴で聞き取れません。
その瞬間
バリンッ!
教室の外側窓ガラスが割れました。
私は、このまま机の下に隠れている事が、本当に正しいのかそう考え始めた頃、廊下側の友達が一人立ち上がり、閉まっていたドアを開けてくれました。
「おい!お前あぶねーから机の下隠れとけ!!」
今までに聞いた事のない大声で、先生が話してきました。
「揺れがかなり大きい!収まるまで各自机の下に隠れろ!収まったら指示を出すからそれまでおとなしくしてろ!!」
全員、必死に机の下で机の脚を掴んで揺れが収まるのを待ちます。
「~校内放送です。かなり大きな地震が発生しました。地震の揺れが収まり次第、担任の先生の判断で生徒を校庭へ避難させて下さい。」
この時点で、まだ揺れているものの少しだけ収まってきました。
先生は慌ただしく別クラスの先生と話しています。
「おまえら、順番に列になって校庭へ向かへ。また揺れが酷くなれば態勢を低くして隠れられる場所へ、とにかく校内は危ないから校庭へ避難しろ!」
私たちは、みんなで手を取り合い校庭へ急いで向かいました。
既に、校庭には多くのクラスが整列しており
泣いている者、落ち着きの無くなっている者、血を流している者、
普通に生活すれば見るはずのない光景が広がっていました。
生徒たちは放心状態、中学生じゃどうすればいいのかもわかりません。
「震源地は福島の方らしいです!!向こうはもっとやばいみたいです!」
「これ大丈夫なのかよ、どうするか…!!」
いつも冷静な先生も、この時ばかりは早口で話していました。
すると再び大きな揺れが襲います
「おまえら全員座って、できるだけ固まって動くな!」
今思うと、無茶な指示です。だって揺れで吹き飛ばされるから。
これ、体験した事がないと伝わりにくいかと思います。
ですが、体験した人ならわかるはず。立つことはできない。
さらに、座っていても揺れには耐えれないあの地震を。
なんとか耐えますが校舎からは何かが壊れる音が終始響き渡ります。
ついに最後のクラスが体育館から出てきました。
肩を組まれて連れ出されている者、血を流している者。
その内の一人と話しをしました。
「体育館どうなってる?」
「揺れが始まってすぐに体育館の中心で全員で態勢を低くしてた。体育館は広いから中心にいれば周りの物が倒れてぶつかってくるとかはないけど、上の電球が目の前に落ちてきた。何人か破片で切ったみたいだ。途中でトイレが壊れてるのも見てきたよ」
想像できないくらいの事が起きている。そう思いました。
「全員集まったな。今後の説明を行う。これから時間はかかるかもしれないが親御さんに連絡を取って迎えに来てもらう。各自で帰る事は禁止する。」
その後も地震は続く中、一人、また一人と親に連れられて帰宅します。
もちろん中には、親が共働きです、親も地震で身動きが取れません、
そもそも、親がおらずおばあちゃんに育てられており安否確認ができていません。そういった人たちも居ました。
この地震の時、スマホは普及し始めた頃。中学生でもスマホを持っている人はごく少数、みんなガラケーの時代です。さらに学校には携帯を持って行ってはいけないので家族との連絡手段もありませんでした。
まだまだ友達が残っている中、比較的早めに私は母親が迎えに来てくれました。
私の好きな子は、まだ残っていました。
3.終わらない恐怖、返事のない好きな子からのメール。
私の家はマンションでした。
比較的新しいマンションだったので、幸いにも被害は小さかったと思います。
家族は忙しそうに、親族の安否確認を行います。
しかし、回線はパンクしておりほとんど連絡が取れない状態。
こうやって私が家族のもとへ帰れたのも、本当に奇跡だったと思います。
ただし、この間にも地震は収まりません。
余震です。
この余震も、体験した方ならわかると思いますが常に大きな地震が起き続けている状態です。小さな揺れが続く、ではなく普通の大きな地震が続きます。私は自分の部屋にいましたが、マンションがずっと揺れていたのを今でも覚えています。
部屋全体から、常にギー、ギーと何かが軋む音がし続けています。
比較的新しいマンションだったので、壊れる事はない。
むしろ安全なはずの場所として、私はずっとマンションにいました。
しかし、余震は一切止まりません。
常に恐怖との闘いです。
余震が収まったのは、外が暗くなり、夜になってからです。
周りの安否確認も徐々にできるようになり、幸いにも私の親族はみんな無事でした。
電話や携帯の回線も復活したので、
私は好きだった子にメールをしました。
1時間、2時間と経っても返事はありません。
当時はLINEもないので連絡手段はメールです。
もちろんメールには既読機能もないのでメールを見ているかどうかもわかりません。
地震も収まり、家族みな就寝することにしました。
不安が大きかったものの、この時点ではニュースも多く報道されるようになり、震源地ではここ以上の被害、騒ぎになっている事、また、現状の把握が当時のテレビのおかげである程度はできたので、このまま寝ても死ぬことはなさそうだと思いました。
と言うよりも、マンションが倒壊するほどの地震が来たら、もうどのみち寝てようが起きてようが助からない。そういう思いでした。
明日、いやすぐにでも元の日常に戻る事を願って、
これ以上被害が広がらない事を願って、
そして好きな子が無事で、明日メールが返ってくることを願って、
私は、その日の事を何度も何度も考えながら眠りに付きました。
4.好きな子、およびそのご家族の安否について。
次の日、なぜかすっきりとすぐに起きる事が出来ました。
まずケータイを開くとメールが何通か入ってしました。
友達からの安否の連絡や、あいつのばあちゃん亡くなったらしい、
そういった情報も回ってきていました。
しかし、好きな子からのメールやその子に関する情報はありませんでした。
すぐに学校からも連絡があり、当分は自宅待機。
現状の復旧と把握ができ次第、再度連絡をするとの事でした。
もちろん、中学生だった私はやることもないのでぼんやりとテレビを見ていました。
どの局も「震度7」「史上最悪の災害」「死者何千人」壊滅状態にある町の風景を見ながら、もし自分の住んで居る場所が震源地であれば学校にいた時点で建物の倒壊と同時に押しつぶされてそこで終わっていたんだな。
本当に生きてるのが奇跡の様に思えました。
外ではスーパーなどもやっている場所と、地震で営業できなくなっているお店がありました。そこで起きたのが物資資源の買い占めです。買いだめしておかないと、今度の災害に耐えられない、そう思い、みんなが買い占めをしていました。私は中学生だったので、この部分についての気持ちややりとりなどは詳しくわかりません。
そうこうしているうちに、あっというまに地震後の1日が終わろうとしている時、一件のメールが入ってきました。
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