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透明な魔物

_____僕は、魔物だ。

「自己への違和感」

自分だけには厳しく生きた。傲慢で我儘な人間になるのが怖くて、自分をぼろぼろにしながら耐えた。

繊細に丁寧に優しく脆いなにかにこそ寄り添えるように生きてきた。でも、得をするのも輝くのも幸せそうな人も「貪欲に挑める人」。 誰かに振り回されたり後始末をする大変さにため息をついてきたのに変われだなんて今更だ。自分で作り上げた闇を今更照らせない。「暖炉の家より寒がる誰かと火焚きをしてしまう、そう生きてきただろ。もうめんどくさい。後悔をする時間も馬鹿馬鹿しい」そう言い訳にして僕は残念で小さくて諦めしか知らない人間に成り果ててしまったのだ。一番弱いのは変化を裏切りと杞憂する変われない自分だった。

痛みに寄り添うための治さない傷、それ自体が僕。思うことも気だるい。どんな歌も響かない。

今日も今日とて歪み合う人間、痛いなと外から笑う人間、明日を夢見て駆ける人間、それら激動の人生どれにも属せない。自分が見えない者の堂々さ、立派さだけが輝きを放つ。

透明人間みたいで、それでいて人間としてなり得ない器。
僕は僕を魔物みたいだと言いたい。

それでも全てに怒りも悲しみも後悔もない。
死すら敵には出来ない。

僕は、魔物。


午前2時、今月明かりは僕を照らす。
やっぱり僕は人間になりたいと思った。

兎角、僕の感情は溶けてきえてしまうのだ。


負の感情を誰一人に露わに出来なかった。
今までの欲望、怒り、後悔。
それら全てが僕の“諦め”の皮を被っている。
それだけが、わかっている。


自分の存在価値、生きる意味って….そんな悩みはとうに諦めに達している。
小学生の頃、精神科医に告げられた「過度に感受性や語彙力が高すぎる、繊細なんですね」といった言葉。同級生の話、価値観や社会問題にもなっているSNSの使い方など世界のどこかで起きている問題のどれを切り取っても、深く深く考えては(「どうして、」と苦しくなるようでいてやっぱり「幸せや平和って無謀なんだ」と)蟻が蝶を食うような無理な思考の働きだと悟る。

もちろん客観視しすぎるのも良くなくて、主観的な感情や自己の考えもすごく必要だ。くだらない昼過ぎに流れたニュースくらい覚えていない友との会話がどれだけ温かいか。

しかし、主観と客観、努力と才能、正義と悪、本音と建前……それらの割合?加減といったものは目に見えなくてやはり誤解や争いの元となっていることは顕著だ。僕はそういったすれ違いや温度感の破綻を起こしたことがない、という傲慢な言葉をゆるして欲しい。僕も初めて少し自信かまけたことを
でも、誰かに泣きつくこともなければ悩みをぶちまけたこともない。なんと言ったらいいのだろうか、その

「ありとあらゆる怒りや後悔が心の底に水のように溶けていく」

ような。たくさん抱え込んで、達回って、完璧で頼れるなんて言われて優等生として生きてきて、それでいて心の底に“後悔”がない。
いや、

ある。

のにそれを表現して生きてきたことがなかった。

希望を希望として見れない僕はどこに本物の感情があるのだろう。

僕は刺激を欲している、変われない空っぽの自分を言い訳に何か自体に期待をかけている。

愚か

僕は感情を、それも醜くてでも美しい矛盾した人間らしいそれを求めて息を吸う。


許せなくて苦しくて走り出す夜。
自分を許せる柔らかな光を愛す朝。
貪欲に人間臭く生きる人生。

「馬鹿みたいに足掻いて、それでも何も後ろめたいことなんてないの。
だって私たちは」

そんなひとつをただ欲している。

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