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「天気の子」に対する違和感の違和感(5000字↑)

この記事について、知人より「大人の責任」について批評してくれといわれたのでちょっと準備をして書いてみています。「天気の子」のネタバレもあるので注意してください(できるだけ配慮しているけど)。

批評とはなにか

まず批評とはなにか。そこからスタートしなければいけない。そもそも批評について教えているという塾の講師の本を読んだが、結局「批評とはなにか」とは書いていなかった。そのあと1年ぐらいいろいろな批評について読んだが、だれも批評をした内容について論じるのに、批評とはなにかという前提がわからずにいたので対岸の火事を決めていました。

ところが、先日の「表現の不自由展」関連で内田樹先生のTweetをみた。

これほど批評の機能端的に述べた記述はいままでみたことなった。自分にとってやっと腑に落ちる形で、体に染みこんだ気がした。というわけでこのnoteをやっとこさかいてるというわけです。

この定義を少し進めておくと、「それが生起(あるいは生起しなかった)文脈」とは、「その文脈の内部にいる人間」にとっては気がつかないことである。文脈の内部と外部を行き来することで批評は成立するのである。この「内部」と「外部」を行き来しているのは、サカナクションの山口一郎のインタビューにも見られます。

僕の右足と左足の間には一本の線がひいてあって、こっちがマジョリティーでこっちがマイノリティー。どっちかにまたぎきるのではなくて、またいで重心移動する感覚。

ここでは「マジョリティー」と「マイノリティー」ではあるが、いわば、マジョリティーは「文脈の中にいる人」、マイノリティーは「文脈の外にいる人」だろう。マイノリティーの立場になることで、マジョリティーを可視化することができるのである。

文脈を可視化する

文脈を可視化するといてもいまいちわかりにくい。しかし内田樹読者(そろそろマニアになってるかもしれない)にとってはおなじみの内田=レヴィナス論を援用することによってとても明快に定義されている。

レヴィナスは、タルムードのテクスト解釈についてこう語っている。
テクストに「内在していた」意味は、仲介者の主体的な介入によってはじめて顕在化する。仲介は仲介者というユニークな存在が介入しなければ発見されぬままに終わっていたかもしれない未聞の意味を開示する。
(内田樹「ためらいの倫理学 戦争・性・物語」)

文脈を可視化するというのは、テクストに「内在されていた」意味を、テクストの作者の意図の有無にかかわらず顕在化することである。「作者の意図の有無」が必要だ。むしろ「作者が意図をしていない」ことが最重要なのかもしれない。

「意図をしていない」というのは考えてないということではなく、無意識的なものである。ただ、純粋な言葉の意味でも「無意識」ではなく、フロント的無意識、さらにいえばラカン的無意識をここでは採用したい。すなわち「無意識的な欲望とトラウマについて暗号化されたメッセージを発している(スラヴォイ・ジジェク「ラカンはこう読め」P30)」ということだ。これをくみ取るのが分析家==批評家の仕事なのであろう。

監督「新海誠の考えていること」

この記事をかこうとおもって、頭の中であーだこうだ寝かしている時にたまたまコミックマーケットの評論ジャンルで売り子をするときがあり、自分より1世代上のヲタクの先輩方とこの話をする機会があった。すると彼らから帰ってきたことは非常に明瞭であった。

「たぶん小難しいことなにも考えていないよ」「主人公の行動に選択肢があるゲームの映像化だよね(笑)」

まったくその通りである。きっとそうなのであろう。それでもコンテキストの外にでることでなにからの文脈を可視化しなければいけないという使命を帯びたのである。作者はなにも考えていないかも知れないかもしれないが、それでも注解をいれるのという立場を表明することが必要である。

そもそも杉田氏の記事自体がわたしにとって違和感であった。この違和感は、宮台真司氏の文章を読んだときに非常に近い。それは、彼が「すべての日本のことを分かっている」ということが違和感の理由である。今回のように「日常」と「非日常」を渡り歩くのではなく、まるでふるい落とすかのように、「なんでもかんでも結びつけられて私は分かっている」という断定をされるのである。でも今回したいことはそうじゃない。

杉田氏が該当記事で重要と言い切っている「アニメ化する日本的現実」という簡単な問題に押し込んでロジックを展開することに最大の問題を感じる。

このへんは内田先生の本のいたるところで出てくるので参照されたい。

成熟した大人の男性とは

杉田氏は「成熟した大人の男性」が描けないことが重要ななにかがあったかもしれないといっている。

大人とはなにをする人間なのだろうか?

そもそも主人公やヒロインを子供として区切っているのは「大人」である。民法で20歳未満は子供ときまっている。しかしそれも大人が決めたことである。しかし、未成年である二人が自分達が大人であることを望む。とくにヒロインの陽菜はいろんな事情で大人であることを強く望んでいる。そのためには主人公、いや観客すら巻き込んだシンプルな嘘をついていく。

子供と大人の役割について考えてみよう。内田先生はこう語っている。

もちろん「「子ども」には「子どもの仕事」がある。
それは「システム」の不具合を早い段階でチェックして、「ここ、変だよ!」とアラームの声を上げる仕事である。
そういう仕事にはとても役に立つ。
でも、「システム」の補修や再構築や管理運営は「子ども」には任せることはできない。
「ここ変だよ」といくら叫び立てても、機械の故障は直らない。
故障は「はいはい、ここですね。ではオジサンが・・・」と言って実際に身体を動かしてそのシステムを補修することが自分の仕事だと思っている人によってしか直せない。
(内田樹の研究室 http://blog.tatsuru.com/2007/12/02_1208.html

本作をみた一番の驚きはここである。子供の役割を大人が行い、大人の役割を子供がしているのである。大人たちはこぞって「子供達だけで暮らしている家」や「家出した子供」を保護しようとしている。しかし、それは「この子供は変だよ!」というアラートにしかなっていない。この子供は自分達を「大人」だとおもっているので「保護して対応すれば終わり」ということしかせず、「なにが仕組みとして問題」なのか一切対応しない。事実警察は、主人公を捕まえることに躍起になっており、彼の言うことに一切耳を傾けない。これは子供のすることではないだろうか。

逆に子供達は「天気」というシステムの不具合の補修を行おうと必死になっておこなう。それが超自然であり、杉田のいうスピリチュアルなものであってもだ。そもそも本作に登場している大人で成熟してるのはただ一人「成熟した大人の男性ではない」須賀圭介である。

そもそも「成熟」とは数値やショートカットのプロセスでは計れないものである。内田樹先生の著書である「困難な成熟」を読むとそこがはっきりとわかる。だいたい「成熟」したと言い切ってる人について、「あの人はとても成熟していないねぇ」と影でこっそり笑ったりする。

逆に成熟した人は、気がついたらいろいろな人に相談され、頼りにされてるなぁということを逆説的、回顧的にわかる人のことである。圭介は主人公などに頼りにされていることからも明らかに「頼られている成熟した大人」なのである。確かに鬱屈しているところがあるかもしれないが、それと成熟しているかどうかは完全に別な問題である。

杉田氏はどういう目的で圭介を成熟をしていない大人であると言い切ったのだろうか。たぶん杉田氏は圭介が成熟した大人であることが困るからだろう。あのような大人はあくまで彼の中では、屈折して破綻した大人であることが要求されているのである。これが冒頭にいった杉田氏の「すべてわかっている感」なのである。圭介のような大人こそが成熟した大人だと認めることは杉田氏が「自分が成熟していない」ということになってしまうからであろう。だから、「重要な何かがあったかもしれない」とそこを見ることができないのである。

責任の取り方

前述の「困難な成熟」の冒頭では「責任はとれるのか?とれないのか?」という話をしている。そこでは「『もう起きてしまったこと』について『責任を取る』ということはできません。原理的にできないのです。もう起きちゃったんだから。(P19)」とし、「『責任を引き受けます』と宣言する人間が多ければ多いほど、『誰かが責任を引き受けなければならないようなこと』の出現確率は逓減してゆくからです。(P26)」と明快にいっている。

「天気の子」では誰も「責任を取る」といってる大人はいない。だから3年間も前が降り続けるという「未曾有の事態」がおきてしまうのである。それでも唯一圭介が冒頭で主人公に対して「責任」をとる行為として名刺を渡している。(そもそもその前に主人公を助けるということをしているが。)この「責任を取る」という行為が最後まで貫かれ、クライマックスの最後の最後の行動へと繋がるのである。

逆にいえばこのような「責任を取る」という大人に対してリアリティがもっとなくなっている。だから圭介は「もっともリアリティのある登場人物」ではなくて、「もっともリアリティがありそうでない成熟した大人の登場人物」なのである。

さらに、主人公が語っている「狂った世界かどうか」という責任はもうおきてしまったことなので主人公たちは責任をとれないのである。でも「この世界を選んだ」ことは彼らの純粋な願いから出た行動であり、そのことについて一切責められることも筋もない。杉田氏がいうような「少女=人柱=アイドルの犠牲」なんてものじゃない。杉田氏のような責任を取るといわない大人ばっかりしか出てこない当然の結末である。

そういう意味では本作は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のオマージュはあくまでも「未来からみた過去」の話という枠組みに対するオマージュである。ラストの「雨の中にみたヒロイン」に強い幸福感を覚えるあたりなどはわかりやすいオマージュなのでは、とおもった。ただ村上春樹訳をあえてもってきている。村上春樹といえば<父>との確執である。このへんについては、もう少し別なところから話ができそうであるのでまた別な機会に。

結局のところ社会はかわっていないし、「雨が降り止まない」といった程度の話であり、セカイ系という解釈はあまりに安直すぎる。

レディー・バード

この作品を「もののけ姫」や「バケモノの子」と比べるあたりでナンセンスである。本作で一番比較すべき作品は、"Lady Bird"という2017年の映画である。

2002 年、カリフォルニア州サクラメント。閉塞感溢れる片田舎のカトリック系高校から、大都会ニューヨークへの大学進学を夢見るクリスティン(自称“レディ・バード”)。高校生最後の 1 年、友達や彼氏や家族について、そして自分の将来について、悩める17 歳の少女の揺れ動く心情を瑞々しくユーモアたっぷりに描いた超話題作!

17歳の女子高生である"Lady Bird"は母親との確執から大学の進学、日々生活、男子の関わり合いといったとてもわかりやすい日常を書きながら、自分とはなにか、親との関わりとは?といった話が書かれている。

「天気の子」の性的な意味での無臭に比べれば、こちらはリアリティー、目の前にいる17歳の片田舎に住む高校生である。ところがこの2作に通じているのは「どこまでいっても人は社会と所属をすることを強く望む」ということである。だから「社会」など排除しておらず、「社会への所属」の形態が日米でどう違うのかとみていみると非常に面白い。

現実は大丈夫なのか?

だいたい、霊的な繋がりについて日本人は強くおもっていたのである。スピリチュアルが軸にあるのではなく、スピリチュアルが日本人にとって当たり前のことで、礼をすることにより天とつながるのである。このへんは安田登先生の「身体感覚で読む論語」を参照されたい。

話が少しそれた。

だいたい杉田氏のいう「『大人』の責任によって、子供や若者のための作品を作って欲しかった」ってなんだそりゃ、ですよ。十分本作は「『大人』の責任によって作られた子供や若者のための作品」ですよ。

私に言わせれば「この現実をどのようなバイアスでみるかは、あなた自身の問題であり、そこに変化や行動なんていらない。ただ日常を生きることが大事である」といってるように見える。なんで無理な変化が必要なのだろうか。杉田氏は「現状に日本がダメなのかとおもう」ことが彼の見ている「認識」なのである。

「大人」の責任なんて存在しない。ここまで書いて強くいいたいことはそれだけである。現実は大丈夫だ。ただこの瞬間を生きていく努力だけすればいいのである。「天気の子」の主人公達は「ただ瞬間」を最も強く生きてきたのである。

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