『チ。』はまんがで読む般若心経だったし、お陰で死ぬのが怖くなくなった
私はいままで、自分(人)が生きる意味をけっこう真剣に考えてきたと思う。その結果、武士道の教えを本気で実践しようとして挫折したり、様々な生き方を訪ねて日本全国を旅してみたり、現在は山奥で自給自足の修行をしていたりと、傍から見たら迷走と呼ばれてしまうようなムーブをかまし続けているが、私自身はいたって真剣である。そんな試行錯誤のなかで、生きる意味を探すうえでの最大の敵の存在に気がついた。それは「死」だ。
「私たちはどうせいつかは死んで無に帰すのだ」と考えると、生きているうちに何をしても無駄な気がしてきてしまう。「長い目でみれば地球もいつか必ず滅びる」と考えてしまえば、なおさらだ。
しかし今年の初め、そんな「死」という私たち最大の敵を鮮やかにぶっ倒してくれる最強の漫画と出会った。それが『チ。―地球の運動について―』である。
特定の主人公が存在しない、前代未聞のストーリー展開
『チ。』は、宇宙は地球を中心に回っていると考える「天動説」が支持されていた時代に、それを覆す真理――「地動説」を唱えるために命を懸けた人びとを描いた作品だ。
この作品の最大の特徴は、特定の主人公が存在しないことだと思う。「こいつがこの漫画の主人公なのかな?」と思って物語を読み進めていくと、そのキャラは決まって命を落としてしまうのだ。そのキャラたちは漏れなく地動説を研究していた者たちで、その研究を次の時代の誰かが引き継いでいく――という形で物語が進行するのである。
天動説が支持されていた時代、地動説は危険思想として、研究が禁止されていた。地球は神によって天の中心に据えられた神聖な星だ、という、教会が唱えた地球中心主義を揺るがすことになる思想だったからだ。だから地動説を研究していることがバレると、研究者は教会から強い迫害を受け、警告に従わない場合には殺された。
それでも彼らは、「合理的で美しい”真理”を明らかにしたい」という純粋な気持ち一心で、地動説の研究を続け、それを次の世代に託していく。
どうやって死を乗り越えるか
「死んでしまえば、自分(人)はすっかり消えてなくなってしまう」と考えると、生きる意味がわからなくなり、虚無感に襲われるし、それゆえ恐怖感にも苛まれるだろう。
でも。『チ。』で描かれている地動説の研究者たちは、命を落とすとき、漏れなく清々しい表情をしていた。死を恐れず、むしろ正面から受け入れ、満足そうでさえあった。
なぜか。それはきっと、死んでも自分は消えはしない、自分は「在り続ける」んだ、と、彼らは信じることができたからだ。自分の命が次に繋がった、あるいは大きな別のものに繋がった、という感覚に至ることができたからだ。
つまり地動説の研究者たちは、「真理(=地動説)」という、自分の命を超えて永遠に続くと信じられるものに繋がれたと感じたからこそ、恐れずに死んでいけたのだと思う。
実は仏教の経典である般若心経でも、同じようなことが語られている。私たちは決して「独立した個」ではなく、繋がり合う一つの存在なのだ、ということが。
般若心経では、例えば私たちが日々使う椅子は、雲、雨、太陽、人、といったあらゆるものを含んだ存在だと捉える。雲がなければ、雨は降らない。雨が降らなければ、あるいは太陽の光がなければ、木は育たない。木を切る木こりがいなければ、そして椅子を作る職人がいなければ、椅子はできない。だからこそ、椅子は椅子として独立した存在ではなく、そのなかにあらゆるものを含んだ存在なんだ、と。
人間にも全く同じことが言える。私たちは、私たちが生まれるまでの時代を生きてきた数えきれない先祖や、太陽、雨、土、空気、動植物、鉱物・・・あらゆるものを含んだ存在なのだ。
そうして、「自分は独立した個ではない」と捉える、「自分はもっと大きなものと繋がった存在だ」と捉えることができてはじめて、「死んだら自分のすべてが消えてなくなってしまう」という恐怖を、手放すことができる。
私はまさに、『チ。』で描かれている、死を恐れずに満足げに死んでいった地動説研究者たちのなかに、般若心経の教えの真髄を見たのである。
もう一つの死の乗り越え方
私はここまで『チ。』をまんがで読む般若心経だと語ってきたが、実はまんがで読むニーチェ的な側面もあるなあと思っている。
私が思うに、死の虚無感や恐怖を乗り越えるには、「自分は消えてなくならない」と信じるほかに、もう一つアプローチがある。それは、「たとえ消えてなくなるとしたって、今この瞬間が最高だから、それだけで生きている価値があった」と思えるようになることだ。いつか消えてしまう、ということ(未来)にではなく、今この瞬間(現在)にフォーカスを当てることによって、生きることを肯定することだ。それがつまり、ニーチェの思想なのだけど。
かつてキリスト教徒たちは、死後の世界に救いを求めた。生きている間に善行を積めば天国に行ける。天国に行けば救われる。だから今は、辛くても仕方がない、と。でももし、死後の世界がないとしたら・・・?
ニーチェが生きたのは、科学の発展によってキリスト教の教えの絶対性が揺らいできていた時代だ。そして人々は「死後の世界なんてないのでは?」「死んだら私たちは消えてなくなってしまうのでは?」という虚無感――いわゆるニヒリズムに苛まれるようになってしまった。
ニーチェが唱えた哲学は、そうした人たちがそれでも希望を持って生きていくための哲学だった。そんな彼の主張の一つが、先述した「もう一度この人生を生きたいと思えるほどの輝かしい”今”を生き、生きることを肯定せよ」ということなのである。
『チ。』に登場する地動説の研究者たちは間違いなく、「命燃やした輝かしい今」を生きた人たちだった。たとえ死後に全てが消えてしまうとしても、地獄に落ちるとしても、それでも生まれてきてよかった。そう思えるような瞬間を生きた人たちだった。
それは以下のような台詞が登場するシーンから、ありありと感じることができる。
死を乗り越えるとか関係なしにとにかくエモい
ここまで、『チ。』は「死」という私たち最大の敵を鮮やかにぶっ倒してくれる最強漫画だということを、般若心経やニーチェの考え方を借りながら語ってきた。
でも『チ。』の魅力は、それだけじゃない。歴史とは、知性とは、倫理とは……そんな様々なテーマに関して、感動を伴う様々な気づきを与えてくれる漫画なのである。
「感動を伴う」というのがポイントで、本当に、グッとくる名言が多いのだ。名言オタクである私は、『チ。』各巻の名言をGoogle Docsに書き起こして保管しているのだけれど、その量たるやはんぱではなく。つまりはパンチラインの嵐ってこと。だから私はいつも写経をするような気持ちで、『チ。』の名言をいそいそと書き起こしている。
般若心経だのニーチェだの、小難しいことを色々と言ってしまったけれど。(そしてあくまで私の独学での解釈なので、般若心経やニーチェの解釈には大いに誤りがあるかもしれないけれど……)
結局お伝えしたかったのは、普通に漫画として、物語として、本当に面白くて最高に心震える漫画です、『チ。』は!ということだったのでした。私が挙げたいくつものパンチラインのなかで一つでも琴線に触れるものがあれば、騙されたと思ってぜひ1巻を手に取ってみてください。
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