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恋愛はひとりに一個ずつ【『花束みたいな恋をした』映画感想文】

映画『花束みたいな恋をした』を観たのだけど、「エモい」「切ない」などという一言では片付けられなかった。


言うなれば、これは切ないラブストーリーのフリをした社会風刺映画だ。

真理を突きまくっていてグロかった。(大いに誤解表現)


ちなみにこの映画はずっと興味がなかったのだけど、観る人によって感想がまっったく違ったので観てみることにした。

この感想文も私の見た世界でしかない、ということは念頭に置いて読んで欲しい。
※ネタバレあり!!※



オトナになるとは

「オトナになる」ってどういうことか
社会人になってからというもの、つくづくこれについて考えている。

お金のために我慢して労働をすること?
好きだったはずのものを手放すこと?
納得いかないことも飲み込んでニコニコすること?


オトナになりなさい、ってよく聞くけれど

世の中の常識(とされているもの)にただ理由もなく従うことであればクソ喰らえと思っている。別に誰かにそう言われたことはないのだけど。



この映画はタイトルに『花束みたいな恋を“した”』とあるように、視聴者に観る前から終わりを意識させている。

たまたま趣味がバッチリ合う大学生が出会って恋に落ちて、その終わっていき方はあえて言うと「ごくありふれた」ものだ。


菅田将暉演じる「むぎ」くんは、彼女の有村架純演じる「きぬ」ちゃんと
この先もずっと一緒にいるために就職をする。

むぎくんはイラストの仕事をしたいと思っていたが、“ふつう”に就職をしてやりたくもない仕事をすることになる。


すぐに仕事が忙しくなり、好きだったはずのものも遠ざけ、きぬちゃんとの時間も会話も無くなってしまう。

(むぎくんが言うには)きぬちゃんとずっと一緒にいるために始めた仕事だったが、皮肉にも二人の気持ちは離れて戻らなくなってしまったのだ。



思えば劇中に、何度もオトナが常套句を言う描写がある。

「就職さえしてくれればいい」と言う親
「5年の我慢。あとは楽になるから」という会社の先輩
「若い頃の恋愛と結婚は違うから」と言う先輩の元カノ

そして「いつまで学生気分なのか」「生きるとは責任だよ」と言う就職してからのむぎくん。


これって当たり前のように言われることだけど、本当に本当なのか??

皆ドヤ顔で唱えていたが、それって誰かがどうにかして確かめたものだったのか。仮にそうだとしても、自分にとってもまったく同じとは限らない。


いずれにしても、ずっと一緒にいるためにはお金が必要で、仕事とは嫌なことを我慢すること

という思考回路になっていたのは、世の中でよく言われていることが影響しているように描かれていたと思う。



オトナ神話が言い伝えられるワケ

皆そう言いきかせるのは、期待して傷つくのを回避しているからだろうか。

むぎくんが「仕事を辛いと思ったことはない、だって仕事だから」と言い聞かせていたのが痛々しかった。


映画の終盤、別れ話のときは切ないラブストーリーとして泣く準備万端だったのだけど、
そこでむぎくんがプロポーズをして涙がスッと引いてしまった。ドン引きだ。

恋愛感情がなくなっても、結婚して子供が産まれて上手くやってる人たちだっている、そうなろう…なんて最悪なプロポーズ。


きぬちゃんの「そうやってハードル下げるの?仕方ないこんなものだ、って諦めて生きていくの?」という問いに対して

むぎくんがハッキリと「うん」と答える。
これがもう全ての答えだった。もう一度言うがドン引きだ。



また、世の中でそれが繰り返し言い伝えられるのはなぜか考えると、おそらく「反する者への拒絶」ではないかと思う。


むぎくんの職場で全てを投げ出した同僚や、好きなことを仕事にしようと転職を決めたきぬちゃんへの拒絶反応が激しく描かれていた。

今の自分に自信がなくて、一生懸命に肯定しようとして、そうでない者を激しく否定しているように見えた。


自分が変わる時や変化があった時に、もともと居たところを否定したりバカにしたりすることで自分を保つことがあるだろう。

大学生のころ、エンジンかけて頑張ろう〜と自分に変化をかけた一時期の私みたい。あの現象は過去の自分との決別なのだ。
自分と重なるだけに痛く幼稚に映った。



知能レベルに差がある男女はうまくいかない

若者はそんな世の中の被害者なのだと言ったらそれまでだけど、

同じ若者として、そして恋愛的に見ると、単に「知能レベルが著しく違うとうまくいかない」と感じてしまった。


恋人同士の破局理由やバンドの解散理由なんかによく、「価値観のちがい」と言われることがあるけれど、わたしは知能レベルの話だと思う。


知能レベルに差があると、導き出す解やそれを出すまでの思慮深さに差が出る。

また、他人同士なのだから違うのは当たり前だけれど、その差を互いに理解するための情報量や語彙量にも差があってはうまくいかないと思う。
さらに言えばそもそも差があること自体への理解度、みたいなものも大事?



思えば二人が恋に落ちるシーンまで遡ると、相手に惹かれている理由を挙げる描写がある。

きぬちゃんは「電車に“乗っていた”ということを、電車に“揺られていた”と表現した」ことが素敵だと思ったという。他にもいくつか挙げていたが、
むぎくんは自分の描いた「絵を好きだと言われた」ことだけを数回頭の中で繰り返す。


最初からものの見方や思慮深さに差があることは明白だったのではないかと思った。



自分にとっての幸せとは何なのか、何を大切にしていきたいか、世の中で当たり前とされていることはそれに当てはまるのか

いろいろなことを知り考え選択肢を増やす、という意味での勉強・学ぶことって大事だなあとまで考えさせられた。
きっと人生を本当の意味で豊かにすると思う。


同じ若者として、この映画で唱えられていた「世の中の当たり前」に思いっきり中指を立てるようにそう思った。笑

(オトナに聞いたら「これが現実」とでも言うのだろうか。めちゃめちゃつまらないな!!
とか言う私もこの前もう25歳になったけど!青いか!そうか!!)



幸せならそれで十分

二人の恋のどこかを巻き戻してやり直せばうまくいったのか?と考えてもよくわからない。


わたしの周りでも意見は割れているが、私は終始むぎくんにイライラしてしまった。

仕事を大切にしたいのならそうすればいいが、どうもそうではなく、大切にしたいのはきぬちゃんだったはずだ。
見ていてその合理性のなさにモヤっとした。



しかし、イラストの仕事を一度辞めてキツイ仕事をする決定をしたのは自分だ。
その理由を自分以外の外部に置く、ましてやパートナーである「きぬちゃんのため」かのように振る舞う姿には心底腹が立った。

“恋はひとりに一個ずつあるもの”だと別れた後の二人も言っているが、そういうことだと思う。


それこそむぎくんが言うように「生きるとは責任」なのであれば、誰かのために行動することは当然ある。
でも時にそれは誰かへの押し付け・エゴとなり、自分自身の決定からの責任逃れにならないか…。



私にとって救いだったのが、映画の最後のシーン。

むぎくんが元カノきぬちゃんと再会した日、当時を回顧しながらGoogleマップで同棲していた場所を見ていたとき、偶然当時の二人が映っていたのだ。



これはむぎくんにとって人生二度目の奇跡。

映画冒頭に、一度目の奇跡(Googleマップに映っていたこと笑)を見たむぎくんがテンション爆上げで学校中に言いふらしているめちゃくちゃに幸せそうなシーンがある。


映画のクライマックスにまたこのシーンを持ってきてくれたことで、「キミも幸せならオールオッケーだわ!!」と思えた。

“知能レベル”の差などとトゲトゲしく言い放ったが、どこで幸せを感じるかでもあるのかなと思う。

結論、それぞれが幸せであればそれでいい。十分に最高だなと思う。



たまたま二人は結ばれずに終わったが、その数年間はすごく幸せだったとのことだし、たぶんきっと絶対これからの二人も、それぞれ幸せだろう。

いろいろ考えさせられたがすごく面白い映画だった。

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