見出し画像

"理想の選択肢"と"最も自分が成長出来る選択肢"は違うのかもしれない

2021年1月、オーストリア1部のFC Wacker Innsbruckというサッカーチームに所属することが決まった。

そう、私は夢だったプロサッカー選手になったのだ。

しかし、幼少期の頃の私はプロになれるような人間ではなかったと思うのです。4つ上の兄とはよく殴り合いの喧嘩をしていたし、母のアドバイスに耳を傾けることすらできない。周囲からは問題児と評されることも珍しくはない子供だったからです。

では、なぜ問題児だった私はプロサッカー選手になれたのか。今日はこれについて書いていければと思います。

そして1つだけ、先に伝えておきたいことがあります。

私は、幼少期から天才的にサッカーが上手かったわけでも、ずば抜けて恵まれた家庭環境に生まれたわけでもありません。

自分よりもサッカーが上手で、「これは勝てないや…」と思わされるような選手に、何度も何度も出会い、その度に打ちのめされてきたような選手でした。

しかし、スポーツを通じて得た“ある考え方“によって、こんな私でもプロになれると想い続けることができました。

優等生だったわけでも、才能があったわけでもない。そんな私がなぜヨーロッパでプロサッカー選手になれたのか。その理由を考えてみようと思います。

幼少期の私がサッカーに出会うまで

私がサッカーを始めたきっかけは、4つ上の兄の存在によるものでした。物心付いた頃には、兄がサッカーに熱中していたこともあって、自然とボールを蹴るようになっていました。

そんな私が幼少期に熱中していたのは「兄との1vs1」でした。

日が暮れるまで、家の前でひたすらボールを奪い合う。そんな毎日を過ごしていました。

ただ、何度1vs1を繰り返しても私は兄に勝つことはできませんでした。

いま考えれば、4つも年上でサッカーチームに入っている兄に、私が勝つなんて無謀なことなのに、当時は悔しくてたまりませんでした。

自然と1人で練習するようになっては、勝負を挑んでまた負ける。そんな女の子だったのです。

気付けば、6年生が4人しかいなかった私たちのチームは、県大会に繋がる大会で優勝するまでになっていました。

そんな調子で、中学になってもサッカーにのめり込んでいた私は、ずば抜けた成績を残せた訳ではありませんでしたが、幸いにも全国屈指の強豪校と言われる藤枝順心高校に進学することができたのです。

そこそこだった私が日本一になるまで

私のサッカー人生を振り返ってみると、この高校を選んだことが大きなターニングポイントだったように思います。

なぜかといえば、中学卒業時点で“そこそこの選手“だった私は、高校を卒業した頃には“日本一のキャプテン“に変わっていたからです。

ではなぜ、そこそこだった私は大きく成長することができたのか。

その要因の1つは、「圧倒的に秀でた人間の存在」が大きく関わっていたように思います。

具体的に言えば、私が高校1年生の時には、現なでしこジャパン&INAC神戸でプレーしている杉田妃和さんや、マイナビ仙台レディースの奥川千沙さんを始め、数年後にプロとして活躍する先輩方が何人も在籍していました。

そんな圧倒的に秀でた選手に囲まれて練習を共にすることで、大きく成長できたと思っています。また、格上の兄に負けたくない一心でサッカーに取り組んできた私は、絶望するほどサッカーが上手いチームメイトばかりで環境は非常にマッチしていました。

どこまでも登れる階段のように、次から次に自分より上手な仲間がいる。対戦相手と出会う。その環境が妙にワクワクして、物怖じすることなくサッカーに打ち込むことができた。

気付くと、いつの間にかトップチームの試合に出るチャンスをもらえるようになっていたのです。

そんな素晴らしい先輩方との1番の思い出といえば、高校1年生の時の選手権の準決勝、常盤木学園との試合です。(※常盤木学園高校は、何度も日本一の経験のある超名門です)

その試合は、試合終了の数十秒前まで0-1で負けていました。この試合に負けたらもう先輩たちと一緒にサッカーをすることはできなくなってしまう。そんな状況の中、ラストチャンスが私の目の前に転がってきました。

島村友妃子さん(大和シルフィード)がクロスを上げ、河野朱里さん(ちふれASエルフェン埼玉)がゴール前で相手選手と競り合い、私には相手ディフェンダーがクリアーではなく体を入れる瞬間が見えた。

「あ、ボールが来る」と感じた瞬間、最後は頭にボールを当てるだけでした。

同点ゴールを決め、土壇場で追い付いた私達はPK戦で常盤木学園に勝つことができたのです。

自分が大切なゴールを決められたことはもちろんですが、なによりも、圧倒的に秀でた選手の中で、自分自身を大きく成長させてチームの役に立つことができた。この瞬間はいまでも私の最大の成功体験になっています。

世代最高の選手たちとプレーして得たもの

そしてもう1つ、忘れられない経験があります。それは、年代別の日本代表に選出されたことです。

高校1年生の入学前に、静岡県にやってきて初めての遠征のことでした。

前述の通り、小学校・中学校でずば抜けた成績を残したわけでもない私でしたが、Aチームの試合に出場させてもらう機会がありました。

これは後から知ったのですが、私が良いプレーをした試合を、当時の世代別代表監督だった高倉監督がたまたま見ていたのです。

主力メンバーが何人か怪我で離脱していたり、度重なる偶然が重なった結果、なんと私が追加招集されることになったそうなのです。

そして、いきなり10日間コスタリカに飛び、同世代最高の選手たちと遠征に行くことになったのです。

しかし、この10日間で私はなにもできませんでした。一緒に遠征に来ていたメンバーには、今のなでしこJAPANを構築するメンバーが多く選出されていて、当時の私は全く歯が立たなかったのです。

試合の度に自分のレベルの低さに絶望し、メンタルを立て直して練習に臨んでも、また何もできない。10日間そんな状況が続いたことで、私はスランプに陥ってしまいました。合宿から戻っても、以前のようなプレーはできなくなってしまったのです。

そんなある日、中学時代に指導をして頂いたトレセンのコーチに再会した時、こんな言葉をかけられました。

順心はパスサッカーだからといって、そのスタイルに合わせないといけないわけじゃない。その中で自分らしさを出すことが大事なんだよ。

そんな言葉をもらった私は、本当に長い間、『自分らしさ』を失っていたことに気付かされました。

世代を代表する選手に囲まれたことで、要求に応えることばかり考えるようになっていたのです。

ようやく自分を取り戻した私は、チームの戦い方を守った上で、自分らしさを表現出来るようになっていきました。

そして、高校3年生でキャプテンになった私は、高校選手権で優勝して日本一になることができたのでした。

日本一になった私がアメリカの大学で経験したこと

そんな私に、進路選択の時期が迫っていました。

有難いことに藤枝順心は実績があったり、過去の先輩の活躍もあり、当時は本当に様々な選択肢がありました。日本でなでしこリーグに行く選択肢や、サッカーの強い大学に進学する選択肢もありました。

しかし私は、1年間の語学留学を経てアメリカの大学に進学する道を選択しました。

英語も全く喋れなければ、プロになる道も閉ざされる可能性すらありました。しかし、女子サッカー世界1のアメリカで、より高いレベルや環境でプレーすることを目指して、アメリカの大学に進学することを選んだのです。

ただ、この決断をした後は、予想もしないような試練や困難が連続しました。

まず私が入学したケンタッキー大学は、ずば抜けてレベルの高いチームではありませんでした。正直、高校の方がレベルは高かったでしょう。

そんな現状をなんとかしようと、覚えたての英語で必死にコミュニケーションを取り続けましたが、現状はなかなか好転していきませんでした。そればかりか、内側側副靭帯損傷の怪我を負ってしまい、シーズンを最後まで戦い抜くことすらできなかったのです。

そんな私は悩んだ挙げ句、2年目のシーズンが終わった直後に新しい環境を求めることを決めました。自分の特徴を理解してくれる監督がいて、刺激を受けられるようなチームメイトがいる。

そんな環境を求めた結果、オクラホマ大学にトランスファーすることを決めました。監督も私を必要としてくれていたし、あとは自分が結果を残すだけ。決意を新たに、もう一度新しい環境に飛び込んだのです。

(※アメリカでは大学間で移籍ができるトランスファーという制度が整っており、新しい環境を求めることが可能です)

新天地で起きた2つの出来事

移籍は問題なく行われ、チームメイトも私のことを受け入れてくれました。シーズン3年目で、ようやく良い雰囲気でリーグ戦を迎えることができていました。

チームは僅差で競り負けることが多くなっていたものの、確実に良くなっていく感覚がチーム全体にはありました。いくつかの歯車が噛み合えば…。そう思っていた矢先のことでした。

今シーズン限りで監督がチームを去ることが発表されたのです。

アメリカの大学では、プロと同様にチームが勝てなければ監督はクビになることも珍しくありません。たとえチームが良くなっていても、選手に信頼されていても関係ないシビアな世界なのです。

これはアメリカでは当たり前のことだったのかもしれません。ですが私にとっては非常に大きな出来事でした。

私を必要としてくれて、良くしてくれた監督がチームからいなくなってしまう。この事実を受け止めきれず、涙が止まらないほどのショックを受けてしまいました。

ただ、いつまでも落ち込んでいられる余裕もなく、大学四年目の最後のシーズンは、新体制で1からスタートすることになりました。私自身も徐々に立ち直り、新しいコーチ陣とコミュニケーションが取れ始めた。そんな時でした。またも予想外の事が起きました。

コロナウイルスが世界中で猛威を奮ったのです。

大学は完全にオンラインに切り替わり、チームの活動も禁止となりました。

人生を懸けた最後のシーズンが始まった矢先、サッカーをすることすらできなくなってしまったのです。日本に一時帰国することになった私は、3ヶ月の間まともなトレーニングすら出来ませんでした。

緊急事態宣言下で動けなければ、サッカーをする拠点もない。アメリカに戻れるかもわからない。そんな全く先が見えない不安な状況でしたが、明るい未来を信じていまできることに取り組むことしか、私に出来ることはありませんでした。

やがて、シーズンの詳細が発表されました。
しかし、最後の1年に懸けていた私にとって、その内容は辛いものでした。

通常20試合以上あるリーグ戦は、たったの9試合に縮小されることが決定されたのです。

アメリカの大学からプロになるためには、リーグ戦で活躍して、ドラフト指名されるのが一般的なのですが、突然そのチャンスは半分以下になってしまったのです。

結局、コロナウイルスの影響もあり、最後のシーズンも納得いくような成績は残せなかった。当然、アメリカのプロチームからドラフト指名が来ることはありませんでした。

しかし、僅かな希望に賭けてトライアウトに参加する準備を整えていたとき、知人経由でオーストリアのチームからオファーを頂きました。

コロナの影響でトライアウトが開催されるかも曖昧だったこともあり、悩みに悩んだ結果、オファーを頂いたオーストリア1部のFC Wacker Innsbruckというチームに所属することを決めました。

決して思い描いた道ではなかったものの、こうして私はプロサッカー選手になったのです。

度重なる困難に直面した私は、なぜプロサッカー選手になれたのか

さて、私のサッカー人生について長々と書き連ねてしまいましたが、特にアメリカの大学に入学してからは、度重なる困難に直面してきました。

では、そんな私はなぜプロサッカー選手になれたのでしょうか。

実際に私の人生を振り返って考えてみると、大きなポイントになっていたのは「自分自身の特性」に重きを置いた判断だったように思うのです。

例えば。兄がサッカーをしていたとはいえ、他の選択をすることも出来たでしょう。兄は私よりもサッカーが上手だったので、わざわざサッカーを選ぶ必要も、兄に挑み続ける理由もなかったはずです。

高校進学の時もそう。地元である福岡の高校や九州内の高校に進学する選択肢もあった。

高校卒業後も、志望すれば大学に行くことができたし、なでしこリーガーになる道もあった。

しかし、私はこれらの選択肢を選ばなかった。

なぜかと言えば、「一般的にこの選択肢を選ぶべき」という考え方に加えて、自分自身の特性も考慮して選択すべきだと思っていたからです。

例えば、私が高校に入学した時。同級生や先輩の中には、私より能力も実績も技術も優れた選手はたくさんいました。基本的には同じ環境で同じ練習をしているので、1年生でそこそこだった私が試合に出れる道理はないはずです。

しかし、いつの間にか私は試合に出れるようになっていた。

それこそ「自分自身の特性を考慮した選択」の効果だと思うのです。

ここまで読み進めていただいた方にはわかるかもしれませんが、私はかなりの負けず嫌いです。兄や同世代のトップ選手に出会っても、「私には敵わない…」と諦めることはありませんでした。むしろそれが大きなモチベーションになっていました。

だからこそ、圧倒的に自分よりも秀でた人間に囲まれれば、自身の特性を最大限活かせると考えていたのです。

そして、これこそが「そこそこだった私」が1年生で試合に出て大きく成長できた要因の1つだと感じているのです。

「いまの実力的にこの選択肢を取るべき」みたいな道は確実に存在すると思います。

ただ、強豪校に行っても全員が必ず目覚ましい成長ができるわけではないし、人気の企業に行けば必ず良い人材になれるわけでも無いはずです。

理想の選択肢に進んでも、必ず理想の結果を得られるわけではないのです。

しかし、理想の道を選ぶことに加えて、「そこで自身の個性や特性は発揮されるのか?」を併せて考慮すれば、成功の確度は高まるんじゃないか。

もともと問題児だった幼少期のワタシ。そこそこの選手だった中学生のワタシ。

これらを強く成長させてくれたのは、負けず嫌いな私の特性を活かした選択にあったと思うのです。

もし、兄から逃げていたり、普通の高校に進学していたら…。

確実にいまの自分はいないだろうし、まともな人間になっているかすら定かではありません。

要するに、問題児だった私がプロになれたのは、「良い選択」×「自身の特性」が最大なるような選択ができたからだと思うのです。

理想の選択肢は必ずしも自分を成長させるわけではない。

いま、私たちの世代はたくさんの困難に直面している方が多いと思っています。コロナウイルスの影響もあって、就職活動や思い通りの社会人生活を送れない方も多いのかもしれません。

ただ、理不尽な困難によって第一志望の選択肢に進むことができなくても、自分を最も成長させるような他の選択肢があることを伝えられたらと思っています。

私はスポーツを通じて、「一般的にはこうすべきという選択肢に加えて、自分の特性を考慮して選択肢を選ぶ重要性」について学んだように思います。

自分が上位にいれば成長できる人も、秀でた人に囲まれた方が成長できる人もいると思います。他にも、いろんなタイプがあるはずです。

それを考慮して考えれば、理不尽な困難によって理想の道が閉ざされてしまっても、自分をより成長させる選択肢を見つけられるチャンスが増えるのではないかと思うのです。

私はいつか、アメリカのプロチームに移籍して、もう一度日本代表にも選んでもらえるような未来を目標に掲げています。そして、自分の生き様を通じて、家族や応援してくれる人たちに、良い挑戦を続ければ可能性は無限大であることを示していきたいと思っています。

長々と私がスポーツを通じて得た考え方を書き連ねてしまいましたが、このnoteを通じて誰かの選択の幅が少しでも広がれば嬉しく思います。


いつも沢山の方からのコメントを頂き、とても嬉しく思っております。私にとって、いいねやRTは最高なプレゼントです。こういう世の中の状況にも関わらず、サポートをしてくださる皆さん、感謝の気持ちでいっぱいです。サポート費は国内外での活動費として大事に使用させていただきます。