非常識な程に
どう考えても、思考に模範解答というものは存在しないという結論に至る僕の話を聞いて欲しい
これは先日紹介した漫画「ここは今から倫理です。」でも語られる
「一人一人に意見があって、それ全てに一理ある
行き過ぎた個人主義や凝り固まった全体主義も共同生活の中では良くも悪くも作用する」
「相手の立場になって考えること。小さい頃から何度も聞かされて嫌になっている言葉かもしれないけど。そこから自分の悪かった所を"自覚”し反省すること。自己批判すること。聞こえは悪いけどそれをして欲しい。」
そして高柳は続ける
「決まりの悪さから反省は始まる
それでいいんです。」 と
つまるところ相手の言葉に腹が立って言い返したくなった時、もしかするとそれは貴方に当てはまる節があるからなのかもしれないということだ
非常識な理論、思考だって元を辿れば何かきっかけや理由があるのだ
それを批判するのは簡単だが受け入れるのはとても人間という生き物には難しいことだ
例外なく僕もそれを出来ないでいる
もちろん全てを受け入れろという意味ではない
視点を増やすということの大切さを説いているのだ
全てに一理ある。
この一言につきるだろう
しかしこれは言い換えると
全てに間違いがあるかもしれない。
と言える
常識とは周りに合わせて作られる曖昧で日々変わっていく流れのことだ
ならば、非常識な程に間違いを説く人間がいつしか常識になる日が来てしまうかもしれない
これこそ真理であり、全ての間違いの始まりなのだ
人の思考には表現の自由が与えられる
それは裏返せば思考隠す自由もあると言えないだろうか
僕は言うまでもなく後者の自由を無駄にしている
隠せば上手く生きていけるのに、それを出来ない人間でいる
非常識な程、僕は常識に囚われ続けている
日々変化していく「常識」の流れに身を預けなければ、いつか僕は非常識な人間になってしまう
しかし周りの流れに身を預けて流されるだけの「流行りの常識、イマドキの常識」は果たして模範解答なのだろうか
僕はそうは思わない
模範解答とは一人一人に初めから与えられた「個性」という名のハンディキャップだと考える
人の数だけ正解と間違いが同居しているのだ
これほどに面白いことが身の回りに転がっているのに自分が正義として疑わず、他人を悪として疑わない人間がいる
これほどにも自身の自由が転がっているのに自分が悪として疑わず、他人を正義として周りを疑わない人間がいる
だから今日も沢山考えようじゃないか
正解だけ追うのではなく、自己批判から始めて間違いを見つけるのも良いかもしれない
間違いだけを見つけるのではなく、正解を証明してみるのも良いかもしれない
それ全てに一理あるのだから終わりはない
僕は非常識な程に常識を疑わずにいる
僕は非常識な程に常識を疑い続けている
終わりの見えない話だけれども、そこに意味を見いだせるはずだ
まず僕はこの考え方を自己批判してみようと思う
そして正解か間違いのどちらかを見つけたいと思う
それを更に自覚して、反省を繰り返せるようになりたい
ただただ流されるのも正解なのかもしれないな
ゆらりとだだっ広い海に1人で浮かぶように
終、
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