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何かを求めて挑戦的に生きた20代

30歳になった朝。
前日にセットした4:30の目覚ましを10分だけスヌーズして起床した。

わたしはいつもランニングしている河川敷にやってきた。
5時台はまだ暗くて、足元もほとんど見えないから不安。


30歳を迎える今日は、わたしにとって節目のような気がして少し特別だった。なんとなく前日に思いついた20kmランニングを早朝5:00からチャレンジをすることにした。

寒さに耐えながらゆっくり走り出し、20代の人生を振り返る。

24歳の時


思い返せばいつもわたしの心の奥はメラメラと燃えていて、高い目標を掲げ挑戦することを恐れなかった。あの時の自分にはひとつも後悔がないくらい、自己実現するために投資をしてきた。

どうしてあんなに夢中で走ることができたのか。わたしはとにかくずっと必死で焦っていた。

20代前半は何者かになりたくて、目の前の仕事に打ち込んだ。
根拠のない自信と希望に溢れていたけど、自身の技術やスキルは追いつかない。それでもわたしは、努力することで明るい未来が待っていると信じていた。

だけどわたしは年齢を重ねるにつれ、自分自身への不安と葛藤が大きくなっていった。

上司から100点をもらえるような回答しかできなかった真面目なわたしは、どこまでいってもイエスマンで自分の意志はまるでない。意見を聞かれても周りの人に合わせて笑顔で対応することしかできなかった。

そんな自分に自信を持つことができなくて、たくさん情報を集めていろんな人の話を聞いてみたりしたけど、結局自分自身は何も変わらず、ただ刺激を受けて自分は変わったのだと勘違いしているだけだった。

どれだけ頑張っても何者にもなれない悔しさ。
自分のことを語れない恥ずかしさ。

芯がなくて人に合わせてばかりの自分を隠したくて強く見せようとしてしまう。そうすればするほど、わたしの口から出てくる言葉はわたしじゃない人の言葉のようだった。

受け売りの言葉ばかりを並べる薄っぺらい浅はかな自分が、また嫌になった。

当時わたしが頑張る理由は、「やりたいから」ではなかった。
挑戦的に生きていないと価値のない人間になりそうで怖かったんだ。



わたしは20代半ばで初めて自分がやりたいと思ったプロジェクトを立ち上げた。

この時のわたしは、人のために自分ができることに向き合った。
やりたいことを実現し、人のためになることができたと思っていたわたしは、それによって「自分は変わった」と思っていた。

だけど今になってわかることは、当時のわたしは、「誰かの役に立つ自分」「人助けをする自分」でありたかったということ。
他者から承認されたい欲求が、わたしをそうさせていた。

だからわたしはずっと「人のために」ということに執着をしていたのだと思う。そんなことには気づくこともなく、目の前にことに全力で打ち込んだ。

30歳になった今、わたしには20代のわたしの心の叫びが聞こえる。

「こんなに頑張っていることを認めてほしい」
「誰かから必要とされたい」
「何者かになって尊敬されたい」

わたしはずっと見えない欲求に苦しめられ、これを満たすために夢中で頑張っていたのかもしれない。

いろんな経験をしてやっと30歳。
まだ30歳。

自分にたくさん向き合う中で、少しずつ考え方は変わってきたかなぁと感じる。

大きな変化は、「人のためになりたい」という思いがなくなったこと。
わたしが誰かの人生を変えるなんて、そんなおこがましい話はないと思うようになった。自分ができることとできないことが一つずつ明確になってようやく気づいたことがある。

人ができることは限られていて、変えることができるのは自分だけであるということ。だから「人を変えよう」なんて気持ちで何かをするのは違う。

わたしができることは、自分の人生を真っ直ぐに生きていくことだけなんだ。

20代は短距離走のようにすごいスピードで駆け抜けた。
自己実現のために、肩書きや実績のために、必要のないものを全て手放し挑戦し続けてきた。

だけどこれからのわたしは真逆の方向に向かおうとしてる。
長距離走のように、ゆっくりでも止まってもいいから長く続ける道を選びたい。近くにいる人を大切に守りながら一歩一歩、丁寧に歩む。

これまで求めてきた成長とか挑戦のような刺激的なものではなくて、やさしさとか、愛とか、豊かさとか。そういう柔らかい目に見えないものを大切にしながら、自分が信じること、やりたいことを実現して長く続けていきたい。

それは誰かのためではなく、わたし自身がまず幸せになるために。


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