連載長編小説『滅びの唄』第三章 教団清樹 8
週が明けてから今日で五日が経つ。しかし枝野からは何の連絡もなかった。枝野にペアチケットを譲った上司と会えるよう取り計らってもらう約束をしていたのだが、一向に音沙汰がない。近頃高瀧のコンサートに通い詰めているということで、杉本は枝野をひどく心配していた。仕事中も枝野からの連絡があるのではないかと気が気でなく、そのため高橋からは一層厳しい視線を向けられるようになっていた。
定時で仕事を切り上げた杉本は、枝野の職場に来ていた。当然窓口は閉まっていて、杉本が建物内に入れるはずはなかった。職員用の出入り口で守衛に事情を説明し、坂根奈緒を呼び出してもらっているところだ。
守衛室の側にある椅子で坂根奈緒を待つ間、杉本は珠里のことを考えていた。これまでも一度帰宅してから劇場の珠里の元に向かうことが何度かあった。そのため劇場に赴く時間に多少の誤差があるのは特に問題ではないのだが、坂根奈緒とのやり取りにどれだけの時間を要すかがわからない。予め質問内容は考えてきたが、長引く可能性はあった。金曜日ということもあって、杉本の体には疲労が溜まっていた。この後劇場まで向かう予定があるというのは、体力的に応える。
しかし一度も欠かしたことのない珠里訪問は、いつしか杉本の楽しみにもなっていた。そのため毎日劇場に通うのは苦じゃないし、それに、杉本が来ない日に珠里が悲しむところを想像すると、またしても使命感が湧き起って来るのだった。
坂根奈緒は黒々とした長髪の女性だった。身長も高く、ヒールを履いているために杉本と目線の高さが変わらない。目は切れ長で細く、整えられた眉毛との相性が抜群だった。
お辞儀をした杉本に、坂根奈緒は困惑顔を浮かべた。当然である。杉本は守衛に「坂根奈緒さんの知り合いなんですが」と自己紹介していたのだ。
「初めまして、枝野がいつもお世話になっています」
「ああ、枝野の知り合いですか……ちょっと呼んできますね」
「枝野は呼ばなくて結構です。今日は坂根さんに少し伺いたいことがあって来たんです。私、杉本と申します」
「杉本さん……」
坂根奈緒はまだ困惑の色を浮かべていた。そして杉本を警戒しているようで、少し距離を取って立っていた。
「あたしに伺いたいことというのは?」
「単刀直入に伺いますが、以前枝野に株式会社清樹主宰のコンサートペアチケットを譲りましたね? そのことについてです」
坂根奈緒は眉間に皺を刻むと、背後を窺ってから小さく頷いた。
「私は今、あるプロジェクトの関係で株式会社清樹、それから高瀧という人物について調査をしています。枝野が言うには、その高瀧のコンサートのチケットを坂根さんから譲ってもらった、しかし坂根さんは高瀧を教祖とした教団の信者ではない。ここまで正しいですか?」
「はい、確かに枝野にチケットを譲りました。あたしが信者でないことも正しいです」
「坂根さんは、あのチケットを知り合いから分けてもらった、そしてそれを枝野に渡した、間違いはありませんか」
「はい」
「ではここからが私の坂根さんへの質問になります。まず教団清樹の信者という坂根さんのお知り合いを教えてもらえませんか」
「はい……。その友人は飯田冬美といいます。あたし出身が東京なんですけど、その地元の同級生です。あたしがこっちに配属されてからも冬美とは頻繁に会っていて、結婚してからは少し機会が減りましたけど――あっ、飯田は結婚して旦那さんの姓に変わったものです。それである時から突然長々とした名前の水を買わないかと言って来たり、立派な流木を家に飾らないかと訊いてくることが増えました。それから頻繁に株式会社清樹の公演チケットを押し付けてくるようになりました」
「チケットは受け取っていますよね、では水や流木も購入されているんですか?」
「いや、さすがにそれは買っていません。水はあって困るものではないので何本か買いましたけど、その後すぐに買わなくなりました」
やはり奇妙な天然水を飲み続けるのは気味が悪かったのだろう。たとえ清樹や高瀧に関心がなくても、ペットボトルのラベルやパッケージのせいで少しずつ洗脳されていくような気がするものだ。信者でない人間にとって、それが不快であるという感覚には納得できた。
「突然買わなくなると、飯田冬美さんは怒ったりしませんでした?」
何かに洗脳されている人間というのは、思うように事が捗っている時は愛想の限りを尽くすが、都合が悪くなった途端に堰を切ったように怒りを爆発させる。それは気分屋の病的なもののように杉本には感じられた。
しかし坂根奈緒はかぶりを振った。
「冬美が豹変したのは、買わなくなってからじゃありませんでした。あたしが買うのをやめる少し前から、人が変わってしまっていたんです。むしろあたしは、冬美が豹変したから買うのをやめたと言うべきかと思います」
「買わなくなる前ですか?」
「はい。あたしが水を数本買ったのを皮切りに、冬美は水の箱買いを勧めたり、さっき言った流木などを買わないかと訊くようになったんです。あたしが渋ると、買ってくれないと困るとか言って泣き出したり、苛立ったり、それであたし、冬美と距離を置くようになりました。その内冬美は水や流木を勧めなくなりましたけど、そんな中でもチケットだけは定期的にあたしに買わせようとしました」
「枝野に譲ったチケットもそれですね……ということは、あのチケットは坂根さんがお金を出したということですか?」
「いいえ、あたしはやっぱり教団とか宗教とかの教えはどうも信じられませんから、お金を出すことはありません。でも冬美が、無料でもいいから受け取ってほしいと頭を下げるんです。だから仕方なくチケットを受け取ることにしたんですが……」
切れ長の目が、よそよそしく杉本を見た。杉本はつい、攻撃的な口調になるのを自覚した。しかしそれを覚えた時には、言葉が声となって飛び出していた。
「それを枝野に押し付けたんですね」
「そんなつもりじゃなかったんです」坂根奈緒は素早くかぶりを振った。「枝野が恋人と別れたことは知らなかったんです。だから良心、と言っていいのかわからないけど、親切心を持ってチケットを譲ったんです。あたしが持っていても観に行かないなら仕方がないじゃないですか、それなら観に行くと言った枝野に譲ったほうが良いと思ったんです」
「ですがそれで枝野は教団に嵌ってしまったんです」
坂根奈緒は息が詰まったように動きを止めた。数秒してようやく目の渇きを自覚したのか、三度素早く瞬きした。どうやら、枝野が高瀧のコンサートに遥々京都まで通い詰めていることを知らないようだ。
杉本は枝野の現状を語った後、続けた。
「私も坂根さんと同じで、教団のことを肯定できません。どう考えても胡散臭いです。でも枝野は引き込まれてしまった。偶然にも酷い振られ方をした後と重なってしまったのは不幸としか言いようがありませんが、それでも枝野が教団に染まるきっかけを作ったのは坂根さんです。私は枝野の目を覚ましたい」
「そんなことを言われても……あたしだって、冬美の大量に余ったチケットを押し付けられて、どうにかしたかったんです。あたしも一度だけ冬美に連れられてコンサートに行きましたけど、教団には少しも惹かれませんでしたよ。枝野の今の状況は、こう言っては薄情かもしれないけど自己責任じゃないですか?」
「確かに坂根さんの言うことは正しいです。私も枝野に連れられてコンサートに行きました。ですが坂根さんと同様に、教団に魅力を感じなかった。ただ、清樹のような宗教や教団というのは、衰弱した人間の心につけ込むものです。枝野が坂根さんからチケットを譲り受けた時は、偶然にも人が拠り所を求める時期と重なってしまったんです。これを自己責任の一言で片付けるのは、ちょっと残酷じゃないですか?」
「もう、どうしようもないじゃないですか。同情ならいくらでもします、でもそんなことしたって現状は変わらないじゃないですか。いったいどうすればいいんです?」
「飯田冬美さんを紹介してもらえませんか。直接会って、お話してみたい」
坂根奈緒はスマートフォンを取り出した。
「そのくらいで済むなら、構いません。でも、東京ですよ?」
「構いません。きっと調査の役に立ちます」
杉本は坂根奈緒と連絡先を交換した。飯田冬美には杉本の目の前でメールを送っていた。返信があれば、すぐに杉本に知らせてくれるという。
別れ際、坂根奈緒は少し疲れた顔をしていた。職員用の出入り口を通る直前、杉本は振り返った。
「枝野によろしく伝えておいてください。今日はありがとうございました」
建物を出た杉本は、夕焼けの向こうに真っ黒の雨雲が迫っているのを確認した。傘をしっかり手に持ち、珠里の待つ劇場へと向かった。
9へと続く……