見出し画像

連載長編小説『赤い糸』1


     赤い糸

        1

 ようやく報われると思ったが、これが救いなのかはわからなかった。
 瞳を薄く濡らす彼女を見て、少なくとも今は幸せなのだと思えた。鼻の下を人差し指で擦ると、滝沢修也は向かい合っている真木泉の横に移動した。衣擦れの音が妙に心地よく聞こえた。
「あたしのほうこそ、よろしくお願いします」修也の告白に初々しく答えた泉の声が鼓膜で繰り返された。二人が結ばれて二分ほどが経ち、ようやく胸の鼓動が落ち着きを取り戻し始めた。その間の沈黙はくすぐったいような時間だったが、不思議と心地よかった。まっすぐに見つめ合い、泉が頻りに微笑んでいたからかもしれない。
 修也は恐る恐る泉の背中に手を回し、彼女の肩に触れ、抱き寄せた。胸には泉の肩の遠慮がちな感触があった。緊張しているらしく、やや強張っている。
 慣れない姿勢に、修也の背筋に冷たい汗が流れた。しかしそれが不快とは思わなかった。斜陽が差し込んだ窓辺に浮かぶ埃さえ愛おしく思えた。泉のために流れ出た汗はむしろ心地いい。
 二人の呼吸だけが音となる空間は、まるで聖域のような神聖さを持っていた。こうして身を寄せ合っていると、まるで第六感を得たかのようで、言葉もなく心が通じ合っている気がした。
 目を閉じて、一つ深呼吸をした。目を上げると、変わらず泉の部屋だった。
 大きく呼吸をしたためだろうか。泉は胸の中でくるりと顔を回した。上目遣いに修也を見上げると、にこりと笑った。
「明日も学校で会えるね」
 泉はそう言うと、修也の手を取った。細い指を修也は握り返した。泉の掌の温もりに、修也は思わず涙を浮かべた。
「どうしたの?」
「いや……」
 修也は目元を拭った。泉の体温が、修也を感動させた。現実なのだと。人生は、苦しいことばかりではないのだと。夢でなくとも、夢はあるのだと。
 それだけでも救われた気がして、希望を見た。
「俺達の人生も捨てたもんじゃないなって」
 うん、と泉は小さく言った。「これからだよ」
 しみじみと、二人は腕を絡めていた。どれだけの時間そうしていたかはわからない。気が付くと、夕闇が空を青暗く染めていた。
 泉の母はまだ帰っていなかった。修也は早速挨拶をしたくなるほど舞い上がっていたが、今日は泉の母を待たずに帰ることにした。交際は始まったばかりなのだ。挨拶をするタイミングはいずれあるだろう。
 修也はマフラーを首に巻くと、泉と外に出た。暖房がついていなかったため室内と外気の温度差はなかった。しかし身を切るような一月の寒風は修也に首を竦めさせた。
 寒い。
 身を震わせながら振り返ると、凍えながら手を振る泉が立っていた。修也は有頂天になった。吹き荒ぶ北風をもろともせず、自宅であるアパートまで歩いた。泉のことを考えていると寒さなど感じなかった。むしろ体がぽかぽかしてくるようだった。
 今日告白しようと決めていたわけではない。もしかしたら、今日想いを伝えなければこの先告白することもなかったかもしれない。
 泉とは時々一緒に下校する仲だった。泉の家のほうが学校に近いこともあり、アルバイトがない日はこうして真木家に立ち寄ることがあった。今日もいつもと同じ成り行きだった。だが泉の部屋に上げてもらったことはなく、いつも家の前か玄関でおしゃべりを楽しんでいた。ところが今日は、部屋に上げてもらえた。
 寒さのせいだろうか。そんなことを考えたが、泉が自分を拒むつもりなら決して部屋には上げないだろうと思い、ひょっとしたら告白は成功するのではないかと予感した。
 泉の部屋に上がり、談笑する。その中で、ふと妙な沈黙が続いた。話題が尽きるのは珍しいことじゃない。普段は勉強机代わりに使っているという小さな座卓と古着ばかりのクローゼットを見回し、二人の目が合うと可笑しく笑い合う。ところが一瞬間、二人の視線が交錯し、妙な緊張が走った。
 一秒、二秒と見つめ合い、泉は口を噤んだまま顔を背けた。修也は胸が熱くなった。泉に対して緊張するのは初めてだった。しかしその緊張が妙に心地よく、この沈黙を打ち破るのが自分の告白だと思うと気持ちが昂った。
 泉が自分だけを認めていることは以前から知っていた。だがそれが自分に対する好意に繋がっているかは不透明だった。それでも貧乏話に花を咲かせ、些細な出来事で笑い合える関係に嘘はないと信じていた。
「付き合ってください」と半ば怯えながら泉の顔色を窺った時、まさに心臓が跳ねた。突然の告白に驚きを隠せない泉が口を開くまでの間、修也の心臓は唸りを上げるように加速した。
「あたしのほうこそ」と返事があった時には、頭まで焼石のように熱くなっていた。泉は、修也から汗が噴き出る直前に口を開いた。「よろしくお願いします」
 泉の返事を聞いてから、修也は頭がぼんやりした。緊張が解けたせいで、全身の力が抜けた。屈託のない泉の笑みにこそ、修也は幸福を見出した。
 天に祝福されている。
 そう考えるだけで、恍惚とした。
 浮かれ気分のまま修也は夕食を摂り、シャワーを浴び、いつしか眠りについていた。目が覚めた時、泉とのことは夢なのではないかと思った。
 昨日のことを思い出しながら登校し、夢ならこんなにはっきり覚えてないだろう、と修也は結論した。昇降口の窓硝子にだらしない笑みが映っているのを見て、修也は眉をしかめた。
 教室に入ると、すでに登校していた泉と目が合った。修也が口元を緩めると、彼女も破顔した。泉は佐藤麻衣と談笑しているところだった。麻衣と泉は親友だ。
 修也は座席に着くと、唯一置き勉していない筆箱を取り出した。用を足そうと立ち上がった時、泉が上機嫌に呼び掛けながら近づいて来た。麻衣を待たせてこちらに来たところを見て、やはり昨日のことは現実なのだと思った。
 修也は「おはよう」と挨拶した。
「これ、見て」
 泉は丁寧に畳まれたハンカチを広げ、差し出した。そこには、掌に収まる程度の長さの赤い糸が載っていた。修也はハンカチを受け取り赤い糸をまじまじと見たが、小首を傾げた。
「これは?」
 よくぞ訊いた、と言わんばかりに泉は笑みを広げた。泉は余程気分が良いらしく、飛び跳ねるように頷いた。
「これ、昨日修也が帰った後に見つけたの」
「どこで?」
「あたしの部屋」泉は修也からハンカチを受け取ると、赤い糸を指先で摘まんだ。「これがあの後あたしの部屋に落ちてたの」
 泉の言いたいことがわかった。「なるほど」と修也は合点したが、泉は修也に最後まで言わせなかった。
「あたし達、神様から幸せを約束されたんだよ」
「二人が結ばれた後、部屋で見つかった赤い糸。確かに運命的だ」
「運命の赤い糸――これ、あたしが持っててもいい?」
 掌に収まる小さな幸せにはしゃぐ泉が愛らしかった。その姿が、今まで同様些細なことで笑い合える日々を持ち続けていると示してくれ、修也も愉快になった。もちろん、と頷くのがどこか嬉しい。
「まさか、ホビーから切り取ったわけじゃないよね」修也は訊いた。
「そんなわけないじゃん。本当に床に落ちてたんだから。こういうのはね、疑わないほうがいいに決まってるの」
「そうだよな。疑わないよ」
 用を足して教室に戻ると、チャイムが鳴った。朝練を行っていた野球部が駆け足で廊下を突っ切って行く。修也の担任教諭である定岡がその光景を面白そうに眺めている。
 修也も喧しい足音に廊下を見たが、目の前には泉に見せられた赤い糸が浮かんでは消えを繰り返していた。
 運命の赤い糸など、本当にあるのだろうか。

 納品されたチルド食品を棚に並べていると午後十時になった。「上がろうか」と店長に声を掛けられたので、両手に持っていた商品を陳列し終えるとレジでシフトカードを切った。入れ替わりの店員に引継ぎを行うと、修也は着替えを済ませて店を出た。
 上空にちらつく霙が見えた。修也は得意げに折り畳み傘を広げ、それから周囲に誰もいないことを確認した。
 天気予報では、明日未明から雪が降るかもしれないとのことだった。だが今日は朝から冷え込みが厳しく、日中晴れ間が差すことはなかった。
 下校中、分厚い雲を見て泉が言った。
「夜には絶対降る。雨か雪かはわからないけど」
 泉は気象学に精通しているわけではない。しかし修也には、恋人が降ると言ったのだから降る、という気がしたのだ。根拠がなくとも、修也には信用に足る一言だった。
 今日は直接アルバイトに向かおうと考えていたが、泉の予言を聞き一度自宅に戻った。折り畳み傘を持つと、再び出発したのだった。
 二人は泉の家の前で別れたが、その時は本当に霙が降るとは思っていなかった。修也にとっては泉の言葉を信じることが重要であって、予言の的中はどうだってよかった。
 結果的に、泉を信用したことで体が濡れることはなかった。
 雨ほどするすると流れ落ちてくれない霙は傘を重くした。アパートに着くと霙を振り落とした。頼りない骨組みがぎちぎちと錆びた音を立てた。
 明日、傘のことを泉に話そう。
 傘を折り畳みながら修也は微笑んだ。
 鍵を開けて帰宅すると、キッチン廊下にリビングの明かりが漏れていた。母の智美が帰っているのだ。
 六畳のリビングに入ると、母は食器を並べているところだった。母は修也の全身を見回した。
「雪大丈夫だった?」
 修也は笑顔で頷いた。息子が上機嫌に笑うことが珍しいからだろう。母は唖然としつつ、にこやかに顎を引いた。
「そう」と言うと茶碗に白米を盛りつけた。
「先に食べてくれたらよかったのに」
「いいの。たまには一緒に食べましょう」
 母が腹を空かせて待っていたのは赦し難いが、修也は素直に頷いた。リビングに敷かれた小豆色のカーペットに尻を据えたが、やはり先に夕食を摂り、早く休んでいてほしかったと強く思った。
 ゆっくり睡眠を取れる日は、母には貴重なのだ。
 修也は母から納豆を受け取ると、「洗い物は俺がするから、食べたらシャワー浴びて先に寝て」と言った。
 母は小さく、「ありがと」と笑った。
 卓袱台の真ん中に大皿に盛りつけられたもやし炒めを置くと、母も腰を落ち着けた。今日の夕食はこのもやし炒めと納豆ご飯だ。丼一杯に納豆や鮭フレークを降り掛けるだけのいつもと比べると豪華なものだった。自炊しない日は、丼屋の賄いが夕食代わりだった。
 納豆を混ぜていると、母に名前を呼ばれた。
「もう二年生も終わる。三年生のゼロ学期なんだから、バイトの時間は減らして、勉強の時間をちゃんと確保しなさい」
 修也は箸を動かしながら、うーん、と低く唸った。
「今から勉強すれば、国公立でも難関私大でも目指せるでしょ」
 白米に納豆を掛けると修也は箸を舐めた。
「大学に行くつもりはない」
 これは前にも母に伝えたことだった。しかし進学しない意向を伝えた後、母は大学に行けと口喧しく言うようになった。進学できるだけの経済力があれば、当然進学を選んだ。奨学金制度もあるが、それは言い換えれば借金だ。借金をしてまでわざわざ大学に行く必要があるのかと修也は疑問に思っていた。
 それならば早く就職して、定職に就いたほうが良い。
「卒業したら就職して、少しでも早く母さんを楽させてやりたいんだ」
 修也はコンビニと丼屋、合わせて週七日アルバイトに励んでおり、さらには時々引っ越し作業員のアルバイトを行ってきた。同様に、母も居酒屋とパン工場の仕込みで週に七日働いている。二人で家計を支えて来たのだ。
 女手一つで育ててくれた母に早く恩返しがしたい。
 しかし母はかぶりを振った。
「修也の人生だから。お母さんのことは考えなくていい」
 まるで自分の人生に母親が無関係のように言う。修也の人生とは、父に代わって母を幸せにすることだ。少しでも早く母を幸せにするためには、高卒で働くしかない。
 だがこれを言っても母は聞く耳を持たないだろう。修也がむしゃむしゃともやし炒めを胃袋に収めようとしている今も、高卒と大卒の初任給の違いや会社での扱われ方、出世についてくどくどと語っている。
「東大に入れとは言ってないの。国公立に受かってくれれば家計としては助かるけど、お母さんとしては私大でもいいからとにかく大学に入ってほしい。今や大学のブランドだって関係なくなってきてるんだから。大学に入ればきっと良い会社に入れるわ」
 母の言う良い会社とは、どういう企業を言うのだろう。ハラスメントに厳しい企業だろうか。環境問題に前向きな企業だろうか。残業時間の少ない企業だろうか。純利益の大きな企業だろうか。
 そんなことはまるで考えていないだろう。
 母は収入面の話をしているはずだ。だが修也にとって、手取り十数万円の会社も手取り四十万円の企業も魅力は同じだ。毎月十数万円が給与としてあれば、母は今みたいに深夜に働かずに済む。こつこつ貯金すれば、旅行にだって行ける。
 奨学金制度で進学し、何百万円も借金を背負うことになるのはやはり人生において不利な気がした。
 修也は妙案を思いつき、悪戯に笑った。
「お父さんがどんな人だったか教えてくれたら、受験勉強するよ」
 父は修也が物心つく前に亡くなっていた。そのため父の記憶はまったくない。ただ、自宅には父が使っていたグローブとボールが遺されており、野球をやっていたということだけは知っていた。修也も中学では野球部に入ったが、高校進学と共にグローブを置いた。家計のためにアルバイトを始めたからだ。
 母は父について語ったことがない。今みたいに、修也はこれまで何度も父について尋ねたことがある。だがその度に「優しい人だった。修也のことが大好きな人だった」と感情のない顔で答えるだけで、詳しいことは何も教えてくれなかった。
 その上父の仏壇はどこにもない。
 その不自然さに、父は優しい人ではなかったのではないか、と修也は考えていた。仏壇を置かず亡き夫を供養しないのは、父との関係がよくなかったからではないか。あるいは父は、母に暴力を振るうような野蛮な男だったのではないか。
 むしろ父が亡くなったのは母にとっては喜ばしいことだったのではないか。貧窮すること以外は。
 違和感を抱いていることがもう一つある。苗字だ。
 滝沢は父の姓であり、母の旧姓ではない。夫と死別すれば旧姓に戻るという決まりはないものの、亡き夫を供養しない母が滝沢姓を名乗り続けていることが疑問だった。これは、父は優しい人ではなかったのではないかという修也の推量と合致しない。
 では母の言う通り優しい人だったのではないかと考えてみるものの、今度は仏壇を置いていないという矛盾にぶつかる。
 それもこれも、母が亡き父について何も語ってくれないから解けない疑問だった。
「それは関係ない話」
 さらりと修也を躱すと、母はおにぎりくらいある白米の塊を口に入れ、頬を膨らませながらゆっくりと咀嚼した。
 当分話せそうにない。修也はこれ以上追及しなかった。
 母は、夫が生きていればと考えたことはないのだろうか。
 修也は部屋を見回した。六畳のリビングには、窓辺に三人掛けの座椅子ソファが置かれていて、その正面には小ぶりの液晶テレビがある。カーペットは小豆色で、その中央に卓袱台を置いていた。部屋の隅には母の化粧台があり、その傍に修也の制服を掛けるハンガーがあるだけだ。三畳の寝室があるが布団は敷きっぱなしで、残りのスペースは修也と母の私服が置かれたクローゼットのようになっている。キッチン廊下から靴脱ぎまでの間にバス・トイレの個室があり、修也が物心ついた時にはこのアパートで暮らしていた。
 父が生きていた頃は、庭付きの一軒家に住んでいたそうだ。貧乏暮らししか知らない修也には想像もできない生活だ。
 庭付きの一軒家からアパートに移り、週七日のアルバイト生活、それを母は十五年も続けている。死者に鞭打つのは凄惨なことだが、父が生きていれば、と修也は微かな恨みを抱かざるを得なかった。
 やはり働かねば。もうそれしか、母を幸せにできる方法はない。

2へと続く……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?