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オリックス・バファローズの初優勝とユニフォームデザインの歴史

 今年のプロ野球は本当に面白かった。セ・リーグは東京ヤクルトスワローズが阪神タイガースとの競り合いを下して優勝し、パ・リーグは先ほどオリックス・バファローズが千葉ロッテマリーンズの敗戦とともに優勝を決めた。スワローズは2015年以来、バファローズは1996年以来のことである。どちらも去年最下位のチーム。

 このエッセイはオリックス・バファローズの話。地元にも近く、ふたつの歴史を紡いできたオリックス・バファローズの球団史とデザインの歴史を振り返りながら、その喜びを語ってみたいと思う。

 プロ野球を普段見ない方や最近観始めた方に説明すると、オリックス・バファローズは「オリックス・ブルーウェーブ」「近鉄バファローズ」の二つの長い歴史を持ったチームが合併したことによって誕生したチームだ。

1.オリックス・バファローズの歴史

【阪急ブレーブス〜オリックス・ブルーウェーブの歴史】
阪急(1936年〜1945年)
阪急べアーズ(1946〜1946年4月18日頃まで)
阪急ブレーブス(1946年4月18日頃から1988年まで)
オリックス・ブレーブス(1989年〜1990年)
オリックス・ブルーウェーブ(1991年〜2004年)
【近鉄バファローズの歴史】
近鉄パールス(1949年〜1958年)
近鉄バファロー(1959年〜1961年)
近鉄バファローズ(1962年〜1997年)
大阪近鉄バファローズ(1998年〜2004年)

 阪急ブレーブスはその名の通り、阪急電鉄が母体。1920年代から始まった小林一三さんの「プロ野球チームを持つ」という夢が自前の阪急西宮球場とともに1936年に誕生した。チームとしてはバルボンさん、米田哲也さん、山田久志さん、福本豊さん、ブーマーさんらを擁した強豪で、とくに西本幸雄監督〜上田正治監督の時代はV9後の読売ジャイアンツや名だたるパ・リーグの強豪を寄せ付けないほどの強さだった。そんなチームが1988年末にオリックス(大手総合リース企業。当時はオリエント・リース)への身売りを表明し、オリックス・ブレーブスとして再出発。1991年にオリックス・ブルーウェーブにニックネームを変更。仰木彬さんを監督に迎え、イチローさん、田口壮さん、長谷川滋利さんといったスターとともに「神戸の爽やかなプロ野球チーム」という清新なイメージで90年代のパ・リーグ旋風を代表するチームとなった。

 近鉄バファローズ近畿日本鉄道が母体阪神、阪急、南海に続く四球団目の関西電鉄系チームとして1949年末にスタートした。関根潤三さん、小玉明利さん、土井正博さん、鈴木啓示さんといった実力者はいたものの、当初はプロ野球史上唯一の100敗を喫するなど、魔術師・三原脩監督や若手育成のプロ・別当薫監督をもってしてもなかなか浮上しなかったしかし、西本幸雄監督とともに1979年に初優勝。80年代後半から00年代にかけては仰木彬監督、梨田昌孝監督らが率いブライアントさん、石井浩郎さん、中村紀洋選手、ローズさんらに代表される圧倒的な“いてまえ打線”の迫力と野茂英雄さん、岩隈久志さんなどの大エースが投手陣を引っ張るという豪快な野球が持ち味のチームだった。

 そんな二チームに合併の話が持ち上がったのが2004年近畿日本鉄道の経営が苦しくなったことを原因に、身売りを検討したのがきっかけである。のちに、日本プロ野球史初のストライキや世間を巻き込んだ大論争に発展したのだが、この結果、近畿日本鉄道を母体とする大阪近鉄バファローズがオリックス・ブルーウェーブとの吸収合併を選択する。(ここで11球団となった日本プロ野球機構に加盟したのが「楽天球団=のちの東北楽天ゴールデンイーグルス」である)

 この新しい船出は決して晴れやかなものではなかった。楽天球団との間で行われた分配ドラフトは不平等なもので、元所属チームのファンやプロ野球ファンからの批判を呼んだ。旧近鉄の選手たちの中で岩隈久志さん、礒部公一さんらはオリックスへの入団を拒んでいたほどだ。さらに、当初発表されたユニフォームはオリックス・ブルーウェーブの意匠をベースに作られたと思われるもので、バファローズ色というよりかは「ブルーウェーブがオリックスのもとにオリックス・バファローズとして生まれ変わりました」といった雰囲気を醸し出していた。(のちに青いラグランスリーブの旧近鉄色の強い「Bsユニフォーム」が登場する)

 そんなチームの監督に就任したのがオリックスと近鉄の両方のユニフォームを身に纏った経験のある仰木彬さんだった。仰木さんは病魔に侵されながらも、シーズン終了まで懸命に指揮をとった。結果、初年度のバファローズは2004年の5位からプレーオフへの進出をギリギリ逃す4位という成績を手にすることとなる。

 しかし、ここからが長い苦難の道のりだった。翌年(2006年)は元阪神の中村勝広さんが監督に就任し、清原和博さんや中村紀洋さんらを迎えたものの、5位に終わる。翌年以降は15年で8人の監督を迎えるなど、2008年と2014年の2位を除き、すべてがBクラスという長期的な低迷に入っていく。金子千尋選手、平野佳寿選手、坂口智隆選手、T-岡田選手といった実力者はいたものの、チームとしてはなかなか上昇しなかった。

 状況が変わったのは、2016年。成績だけを見れば、2016年はオープン戦からペナントレースのすべてが最下位という“歴史的低迷”である。しかし、この年に加入した新人選手たちがすべての始まりだった。

【2015年ドラフト会議指名選手】
1位:吉田正尚(外野手:青山学院大学)
2位:近藤大亮(投手:パナソニック)
3位:大城滉二(内野手:立教大学)
4位:青山大紀(投手:トヨタ自動車)
5位:吉田凌(投手:東海大相模高校)
6位:佐藤世那(投手:仙台育英高校)
7位:鈴木昴生(内野手:三菱重工名古屋)
8位:角谷龍太(投手:ジェイプロジェクト)
9位:赤間謙(投手:鷺宮製作所)
10位:杉本裕太郎(外野手:青山学院大学 - JR西日本)

 吉田正尚選手、近藤大亮選手、大城滉二選手らは早くから頭角を現した。特に吉田正尚選手は球界屈指の強打者として毎年のようにタイトル争いに顔を出すほどに成長した。だが、ここで重要なのは吉田選手ではない。ドラフト10位の杉本裕太郎選手だ。

 話を進めてみよう。2015年以降のオリックス・バファローズは山岡泰輔選手、田嶋大樹選手、山本由伸選手、太田椋選手、宮城大弥選手、紅林弘太郎選手といったプロスペクトを次々と獲得。2016年、2017年、2018年、2019年と時が進むごとにチームは少しずつ陣容を整えていく。とくに高卒選手に力を入れ、山本由伸選手を各球団のエースを凌ぐほどの力を持った日本トップクラスの選手へと成長させた。

 投手陣を中心に少しずつ力を蓄えていった中で、課題となったのは打線。2020年はメジャーリーグで活躍したアダム・ジョーンズ選手を獲得するなど、近年でも屈指の資金を投じた補強を行った。しかし、同一チームへの6連敗や西村徳文監督が“途中解任”されるといった低迷が続き、前年に引き続き成績は最下位に終わった。

 長年の課題、積年の課題。打線。かつては外国人選手を四人据えるという荒療治で重量打線を形成したこともあったが、このチームは伝統的に打線に問題を抱えていた。2021年も、プロ野球ファンやOBより“打線が問題だろう”といった声が上がっていた。ここでブレイクしたのが、前述の杉本裕太郎選手である。

 2021年のオリックス・バファローズは強くなった。宮城大弥選手、紅林弘太郎選手といった若手の活躍とともに、30歳を迎えた杉本裕太郎選手が大ブレイク。最終的に3割30本を上回る成績を残した。(宮城選手はもう説明不要だろう)

 そして、打線が厚みを増したことと全体的にチームの選手層が大幅に向上したことでチーム成績が浮上。一時は差をつけられたものの、千葉ロッテマリーンズとの激闘を制し、オリックス・ブルーウェーブとしては25年ぶり、近鉄バファローズとしては20年ぶり、何よりもオリックス・バファローズとしては初の優勝を果たしたのだ。

2.オリックス・バファローズのイメージ刷新

 今回のメインテーマはオリックス・バファローズという球団の歴史ではない。そのオリックス・バファローズの選手たちが身に纏ったユニフォームの話だ。

 2005年の球団合併時のユニフォームが旧・ブルーウェーブ色が強いものだったという話は先述の通りだ。すぐに旧・バファローズ色の強い青いラグランスリーブのBsユニフォームが発表されたものの、バファローズでありながらもブルーウェーブのイメージがなかなか拭いきれなかった。

 転機となったのは2011年。2009年にビジター用の帽子が刷新され、何度もユニフォームの小変更が繰り返されるといったことはあったものの、イメージの一新が行われたのはこの時が初めてだった。この刷新はロゴやユニフォームからマスコットまで、ホーム球場と選手たち以外のすべてが入れ替わるほどの大規模なものとなった。

 「新・黄金時代へ。」
 「オリックス・バファローズ改造計画」

 当時の岡田彰布監督のもと、李承燁さんやヘスマンさん、朴賛浩さんらを獲得し、“まったく新しいオリックス・バファローズ”というチームを内外にアピールした。これは、従来のブルーウェーブでも旧・バファローズでもない。オリックス・バファローズというまったく新しいブランドイメージが生まれた瞬間であったと思う。

3.2011年の新ユニフォーム

 2011年のブランドイメージ刷新でもっとも大きな変革が起きたのがユニフォームだ。デザイナーはGWG inc.の池越顕尋さんが担当。紺色をベースとした落ち着いた配色が印象的である。

 「Bs」というロゴに込められた想い(ブレーブス、ブルーウェーブ、バファローズの三つのBの歴史を受け継ぐ)をそのままに、阪急ブレーブスとオリックス・ブルーウェーブと近鉄バファローズの特徴を活かしたデザイン。たとえば、Buffaloesの「ff」は岡本太郎さんによる猛牛マークを思い浮かべるし、ビジターユニフォームのグレーは野球ユニフォームの基本とともに阪急・近鉄の両球団が長年使用してきた色である。

 2009年に埼玉西武ライオンズのブランドイメージが刷新された際(西鉄ライオンズと西武ライオンズの青を組み合わせる)も、2016年に東京ヤクルトスワローズのユニフォームが刷新された際(緑色の導入)もそうだったが、近年のユニフォームデザインのトレンドに「球団の持つ伝統を取り入れる」といったものがある。オリックス・バファローズのユニフォームデザインもその流れとまったく同じで、球団の“伝統”を大切にした上で新しい“伝説”を作るという気概に溢れたものだ。(と少なくとも私は感じた)

 それでいて、めちゃくちゃカッコいいし、野球のユニフォームとして選手によく似合う。このユニフォームが発表された時は本当に喜んだことを記憶している。当時10歳だったが、この刷新は幼いながらに記憶に残る、野球ファンにとっては大きな出来事だった。

4.その後と今日の優勝から

 最初に綴ったように、2011年以降もオリックス・バファローズは長期に渡って低迷が続いた。2014年は優勝寸前まで持っていったが、結局最後の最後でチャンスを逃してしまった。

 黄金時代を願って作られたユニフォームが、“低迷期の象徴”になってしまう。皮肉な話だが、使用期間の長さと成績がそうさせてしまっていた。それでも、今年優勝した。10年経ってしまったが、ようやく優勝という二文字をこのデザインに紐づけられた。

 本当に色々あった10年間だった。球団史にとっては、激動の16年間だった。おそらく、球団の意匠関係を担当されている方はめちゃくちゃ喜んでいらっしゃると思う。当時と同じ方なら特に。

 「Bsマーク」は「Bマーク」に代わり、ラケットラインや帽子の配色が途中で増えたり、無くなったりもした。このデザインをベースに様々な特別ユニフォームも作られた。地球儀とか、ダイヤモンドとか、チェックとか、戦国武将のイメージとか、派生ユニフォームは数えきれないほどである。

 よかった。本当によかった。素晴らしいことだ。今日はこの気持ちでいっぱいだ。

 これからもオリックス・バファローズに良い出来事が沢山あることを願って、このエッセイを締めさせていただこうかと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

【参考文献】
オリックス・バファローズ 公式サイトより
『2011年、球団ブランド一新。オリックス・バファローズ改造計画発動』
https://www.buffaloes.co.jp/news/detail/1418.html

綱島理友「プロ野球ユニフォーム大図鑑<上>」(ベースボールマガジン社)
綱島理友「野球帽大図鑑」(朝日新聞出版)

毎日新聞
『「なんやこれ」オリックス名物の奇抜ユニホームに込めた思い』
https://mainichi.jp/articles/20210702/k00/00m/050/217000c

オリックス・バファローズ 公式サイトより
『2019年新ユニフォーム発表』
https://www.buffaloes.co.jp/news/detail/00001942.html

ほか 各種個人ブログなど

 2021.10.27
 坂岡 優

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