「続・M先生のこと」
中2の頃、僕はちょっとヤンチャな生徒だった。
全国的にこんな言い方するのかどうかは知らないが、
とにかく悪さをするようになった。
不良じゃあないけれども、不真面目には違いない。
まぁ悪乗りが度を越したらこうなった、という感じだ。
M先生は美術の教師だから、授業はもっぱら美術室ということになる。
美術室には準備室というのだろうか、隣接してM先生専用の別室がある。
扉一枚を隔てたその埃っぽい部屋は、M先生のアトリエに違いなかった。
吸殻で山盛りの灰皿、電気ポットとインスタントコーヒー、
封の開いたビスケット、ソファーに毛布。
そして僕にとっては近寄り難い、あの油絵具独特の匂い…。
もっと子供の頃、絵が好きだった僕は近所のお絵かき教室に習いに行ってたことがある。
小1から絵を張り出されたりはしていたので、結構まんざらでもなかった。
決して上手な方ではなかった筈だけど、かなり楽しくて、半年ほど通っていた記憶がある。
それまで何の取柄もなかった僕に、絵の神様が少し微笑んだ。
正確には微笑んだような気がしただけで、きっと苦笑いだったんだけれども…。
半年が過ぎて、間違っても教育熱心とはいえない僕の母親がこういった。
「そろそろ本格的に油絵でも習いに行きなさい。」
勘違いも甚(はなは)だしい母親に連れられて、5つ離れた駅にある美術教室へ見学に向かった。
先生は厳しいらしいが良い教室、ということで有名だったらしい。
結局、一体何がどうなって、その有名美術教室に通わなかったのかは記憶にない。
憶えているのは、松本零士みたいな先生が教えていた風景と、強烈な油絵具の匂い。
そして駅へ戻る帰り道で母親と喧嘩して泣いていたこと。
何故だか知らないけれど、M先生は教室を出て行ったきり戻ってこないことが多かった。
授業が終わるまで、準備室は‘やんちゃ’な少年にとって恰好の休憩所となった。
ポットのお湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れる。
ビスケットを一枚だけ口に放り込む。
机の上に置きっ放しのタバコを頂戴する。
ソファーに寝転んで、タバコを燻(くゆ)らしながら、コーヒーをすする。
別にコーヒーが飲みたかった訳でも、タバコが吸いたかった訳でもない。
そのスリルを味わうことが、たまらなく快感だったんだ。
今考えると、完全にバレていたんじゃないか、と思う。
インスタントコーヒーが買い足されていたというのは、バレていない方がおかしい。
しかし一度もM先生に怒られることはなかった。
もし学校にバレていたなら停学は必至、反省文を嫌というほど書かされたはずだろうし…。
まったく根拠なんて無いけれど、僕は心のどこかで、こう思っている。
(M先生は本当に気が付いてなかったんちゃうか)
インスタントコーヒーで乾杯する友達を尻目に、
準備室のとある油絵に近づいていったことがある。
展覧会でしか見たり出来なさそうな大きなキャンバス。
惜しげもなく贅沢に塗ったくられて隆起した色の塊。
これが、僕等の知らない、M先生の素顔。
芸術家という言葉を初めて意識し、畏敬の念を抱いた瞬間。
圧倒的な気を感じて、油絵に挑戦しなくて良かった、とも思った。
それから何年も経ってから、僕は偶然にもその絵に再会することになる。
同窓会で、M先生が亡くなられたということを伝え聞いてはいたけれども、
とっさにはそのことを忘れているくらいの月日がすでに過ぎていた。
所用で立ち入った市役所の、階段の一角の人があまり通らない落ち着いた場所。
そこに飾られてあるその絵には「屋上の楽士達」というタイトルが付けられていた。
これがまたギターを抱えてたりする絵なので、縁を感じざるを得ないんだなぁ。
【2005/10/15 HP更新】 #なごみの手帖
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