自分の修士論文について振り返ってみるpart1

今年の一月に修士論文を提出してからはや7ヶ月が過ぎようとしている。執筆が完了して以来修論は頭の片隅に追いやっていた。というのも全部で136ページくらいある修論を読み返す気にもならず、また当時1ヶ月くらい超集中して書き上げた修論のやっつけ部分とか、読み返すとあれ?ってなる部分に目をやりたくなくって放って置いたのだが、これだけ暇が続いたことによって少しだけ、少しずつ目を向けてもいいかなと思えた。きっかけとしては先日、大学の先輩に会った際に修士論文を読みたいと言われて渡した時に、ふと自分でも読み返したからなのであるが、思ったより自分で読んでいて面白かった。っていうことと、今なら少しは客観視して読めるんじゃないかということで、頑張って解説していきたい。

長くなるので今回はpart1 第1章だけ触れる。関係学校の関係もあり一部伏せるが修論の概要については都度説明を入れようと思う。

まずは概観として章立てを掲載する。

目次
はじめに
1章 問題意識
1.1 テクノロジーがもたらした「知識観」「学習観」の変化
1.2 授業における「主体」と「客体」
1.3 教室という空間における生徒の主体性の成立
1.4 ビースタによる二つの批判
1.4.1 教育の「学習化」批判
1.4.2 「伝統的な教授批判」への批判 
1.5 本研究における問題意識
2章「主体」とは何か̶ ビースタの論考に着目して̶ 
2.1「学習とは異なる実存可能性」を開くには
2.2 ビースタの教育の三機能及び目的
2.3 「主体」・「主体として存在する」とは何か
2.3.1 「主体/実存」̶ 人間が誰であるか、どのようであるかの問い
 2.3.2 ハンナ・アレント̶ 行為を始めた者、従属する者
2.3.3 レヴィナス̶ 唯一性と応答責任、内在性の中断
2.4 教育の機能としての「主体化」そしてアイデンティティ 
2.5 数学という教科における教育の三つの機能
2.6 本研究の目的
3章 本研究におけるフィールドおよびリサーチクエスチョン 
3.1 仮説生成型の研究̶ リサーチクエスチョン導出の過程̶  
3.2 フィールド
3.3 なぜA学園か
3.4 フィールドエントリーとフィールドワーク
3.5 調査の手続き
3.6 フィールドワークより明らかになった事̶    リサーチクエスチョンへの手がかり̶
3.6.1 生徒の「教科観ディスコース」
3.6.2 教師の「教科アイデンティティ」 
3.7 本研究におけるリサーチクエスチョン
4章 ディスコース分析と教室談話研究
4.1 社会構成主義
4.2 ディスコースとは何か
4.2.1 ディスコース
4.2.2 ディスコースの「支配性」と「欠損ディスコース」 
4.3 ディスコースの中のアイデンティティと主体ポジション
4.3.1 ディスコースの中のアイデンティティ
4.3.2 主体ポジション
4.4 ポジショニング理論とは何か
4.5 教師のポジショニング-教室談話分析への応用-
4.6 アイデンティティ研究としてのポジショニング理論
4.7 社会文化的アプローチとは何か
4.7.1 発達の最近接領域
 4.7.2 アプロプリエーション 
4.7.3 正統的周辺参加
4.7.4 媒介
4.7.5 「声」と「多声性」
4.8 総括
5章 分析方法
5.1 対象
5.1.1 数学科のA先生
5.1.2 高校一年生A組 
5.2 手続き
5.2.1 評価表の分析 
5.2.2 インタビュー調査 
5.2.3 授業の参与観察
6章 評価表の分析
6.1 本節の目的
6.2 評価表とは何か
6.3  A先生の授業の評価表
6.4 評価表の分析
6.4.1 コード生成の手続き
6.4.2 前期、後期を通じて「満足できた」もしくは「満足できない」に変化は 見られたか。
6.4.3「満足できた」もしくは「満足できない」には何が関連しているか。
6.4.4 自由記述のコーディング
 6.5 コードの考察
6.5.1 逆接
6.5.2 比較
6.5.3 実感
6.5.4 驚き
6.5.5 数学観
6.5.6 身近さ
6.5.7 クラスメイト・友達
6.6 「教科観ディスコース」と「変容」のコード
6.7 総括
7章 インタビュー分析
7.1 A先生へのインタビュー 
7.2 質問項目の決定
7.3 インタビューの内容分析
7.3.1 生徒としてのA学園
7.3.2 教員になるまで
7.3.3 教員としてのA学園
7.3.4 授業における即興性
7.3.5 A学園における授業・授業をつくる楽しさ 
7.3.6 過去と現在の学校の比較
7.3.7 評価表にみる生徒の数学観
7.3.7.1 ネガティブ・ポジティブな記述
7.3.7.2 実験・実際にやってみること
 7.3.7.3 役にたつ・たたない
7.3.7.4 驚き
7.3.8 A先生の授業についての認識
7.3.9 評価表とテストについて
7.4 インタビューの内容分析およびコード一覧 
7.5 A先生の教科アイデンティティの構成
8章 教室談話分析
8.1 教室談話分析とは
8.2 授業観察のスケジュール
8.3 談話分析析析̶教師の教科観アイデンティティを反映したポジショニング の事例
8.3.1 事例1「予習」
8.3.2 事例2「自然現象としての関数」 
8.3.3 事例3「数学者」
8.3.4 事例4「擬似の確率・本当の確率」 
8.3.5 事例5「真面目・不真面目」
8.3.6 ディスコースの支配性への抵抗
8.4 「関数」と「確率」の授業の分析
8.4.1 授業における「予想」̶関数の授業と指数関数の授業̶ 
8.4.2 「確率」の授業̶教具を媒介にした対話̶
8.5 授業の構造
8.6 総括
9 章 結果と考察
9.1 本章の目的
9.2 生徒のポジショニング
9.2.1 変われなかった生徒とディスコースの支配性
9.2.2 教師の思いが生徒に伝わる瞬間
9.3 教科観ディスコースの変容はいかにして起きたのか
9.3.1 生徒と教師の共謀
9.3.2 バックグラウンド
9.3.3 数学の授業のおける「らしさ」「らしくなさ」 
9.3.4 教科観ディスコースの変容とは
10 章 総合考察
10.1 教師の教科アイデンティティと生徒の教科観ディスコース 
10.2 数学という教科における主体化とは
10. 3 本研究の成果
10.4 今後の課題

章立ての時点で長い。長すぎる。本来であれば修士論文は修士課程の2年間で執筆するものであるため、調査に時間をかけられてもせいぜい半年かそこらであることが多いはずだが、自分の場合休学を挟んでいるため調査機関が一年半ほどあったため、データの量も莫大なものとなり、分析にもかなり時間を要した。

この研究はまずある学校における数学科の授業の研究である。私は六月からの8ヶ月間学校に通い授業を観続けてきた。その過程での生徒の意識および態度変容を映像や資料そして授業者のインタビューなどから明らかにしていった。詳細については三章で述べるが、仮説生成型の研究であったため、明確なリサーチクエスチョンがあってフィールドに入っていったわけではなく、私の直感でこの教室では一体何が起きているのだろうか、という好奇心から研究が始まっている。そのため、冒頭の問題意識などは後付け的な感じになっている。もちろん本研究を行ったことによって見出された問題意識とリンクしていることは間違いないが、途中で出てくる理論的概念などが先行してフィールドを選定したというわけではないことをあらかじめ断っておく。

「第1章問題意識について」をまとめる

この論文がどのようなことを扱うのか、という話をする前に私がどのようなことを問題意識としてもっているのか、ということを明らかにするパートである。この調査を始める前に様々な学校の授業を見学する中で、当たり前のことであるが、なぜ「学校」という空間に人々が集まり、「授業」という携帯で時間を同じ空間で過ごすのか、ということを捉え直したいと思った。それには昨今増え続けているオンライン形式の授業などとの対比が脳内にはあった。そのような形式がありつつも、依然として我々が学校の、授業にこだわるのはなぜか、そのことに意味があるという前提でこの研究は始まっている。図らずも世の中がこのようになってしまったことによって、授業をオンライン上でやらざるを得ない状況が続いた。それによって少なからず、やはりというか、ちゃんと対面で同じ時間、空間を共有することの意味が問い直される機運が世界的に高まっているので、自分の考えていたことがなんとなく見直されたような気がしている。

1.1 テクノロジーがもたらした「知識観」「学習観」の変化 

ここで述べていることは世間一般で「知識」というものが交換可能なものと見なされており、その見方がインターネットの登場により強くなっていること(知らないことは検索すれば事足りる)そしてその極めて個人的な行為を「学習」と呼ばれていること、という書き出しで始めている。ここはこの後に引用するビースタのアイデアがあってこそであるが、日常的に情報に触れる中でそのような見方が強まっているのは常々感じていることなのでイメージがしやすい。またこうした側面が強くなることで、学校および教師の存在は不要で、学習は自ら進めればいい、という自分が反対する意見の論理構造を説明することになっている。


1.2 授業における「主体」と「客体」
1.1で述べたような内容は教師を主体、生徒を客体として認識している。このことがパウロ=フレイレが唾棄したような「銀行型教育」の考えと通暁している、と述べた上で、この主体と客体の分断が生徒間にも進行していることを指摘する。それは昨今叫ばれるいわゆる「アクティブラーニング」の推進によるもので、生徒を「主体化」する、ということが生徒間で主体である生徒とそうでない、客体としてみなされる生徒に分断したことを指摘する。この事態は日本社会に特有なことではなく、全世界的に行われていることであり、その背景にあるものはのちの1.4で確認する。


1.3 教室という空間における生徒の主体性の成立
では生徒の主体性とは何か、ということを石黒(2016)を用いて説明する。石黒はフーコーのパノプティコンの例を用いて学校における生徒の主体性の成立が極めて従属的なものであることを指摘する。それは社会における主体性と同じで教室で言えば教師の視線を常に内在化することによって主体性が成立するという。つまり世間一般にイメージされているような「主体性」という言葉のもつ独立した存在であるような意味と、極めて従属的な側面を持つ「主体性」の乖離が指摘される。この「主体」および「主体性」についてはのちの2章で詳しく掘り下げる。

1.4 ビースタによる二つの批判
 1.4.1 教育の「学習化」批判
 1.4.2 「伝統的な教授批判」への批判 
ここでようやく教育学者ビースタの二つの批判を取り上げる。一つ目は教育の「学習化」批判。全世界的に「学習」という言葉が広く使われるようになっていることをビースタは指摘しており、「学習」それ事態のもつ極めて個人的な側面によって、教えて学ぶという教師の存在が危ぶまれるようになっていることを指摘する。ビースタはこのことを『(教師の役割を)「壇上にいる賢人」から「〔学習者の〕傍にいる支援者」へと変えた。』と端的に述べている。教育の現場で「ファシリテーター」という言葉がよく使われるようになったこともこの事と無関係ではないだろう。

またよく言われるような教師が話し、生徒が聞くといういわゆる「伝統的な教授」およびそれについての批判というものがあまり的確ではなく、TEDに代表されるような先進的と言われる形態であっても、伝統的な教授のスタイルをとっているということからその批判がうまく機能していない、むしろ古びたものであることを指摘する。この二つの批判が、前述してきたような知識観や学習観の変容の部分と対応しているといえ、こういった教師や「教えることそのもの」が危機に瀕している、ということを問題意識として述べた。

振り返ってみて

解説した通り二項対立的にオンラインでの授業と、従来的な授業のあり方を立てているが、自分の立場は後者なのでオンラインの授業の存在を認めつつもやっぱり学校で人が集まって授業したほうがいいよね、っていうのが主張である。ただし、これは執筆時点での話で、現在こういった状況になると、併用するっていう考えが生まれるわけです。というのも自分が実際にオンラインで授業やってみてその限界に気がつくとともに、この部分であればオンラインでやってみてもいいかもね、っていう併用の可能性にこの時点だと気がつけてなかったかなぁと。現実的にこの先学校がどうなっていくかはわからないけど、今回の件で学校のオンライン利用についての機運は高まっていると思う。設備等の問題で全ての学校で行うのはまだ難しいかもしれないが、近い将来設備が整えば、対面でやるよりも効率的に課題の提出や、何度でも見返すことができる解説動画などの利用は進んでいく可能性がある。あくまでも共存という形で、結局対面でやる授業はなくならなそう、っていうのがオンライン授業を経験した後の自分の感想。まぁこれは執筆時点では考えもしていなかったことなので後出しジャンケンみたいな話になるが、一周回って「授業」について考える人が増えたことはよかったと思う。

率直にいって「主体」「主体性」については正直あんまり突っ込まないほうがよかったと思っている。というのも同じ言葉でも使われ方、捉えられ方が180度違うマジックワードのような側面があり、この次の章でビースタのいう「主体化」も全く違う意味を含んでいる。つまり取り扱い注意で、この後の取り扱いに非常に苦労した覚えがあるからだ。教室における「主体」と「客体」くらいにとどめておいてもよかったのかなぁとは思うが、ここを書いている段階では現代の学校の「アクティブラーニング」による混乱とか、その言葉を突き詰めていった先に待ち受けるものってなんなん?みたいな問題提起がしたかっただけなんです。要はこの後のビースタの伝統的教授批判批判の話で、教師が教える、っていうことが必要以上に悪く言われてねーですか?とか、だいたいそういう批判する人がこぞって活用するTEDも結局伝統的教授の形態だよねっていう滑稽さ?みたいな指摘がすごく面白いと思ってました。まぁこのことについてはもう一つの批判である「学習化批判」があってこそ成り立つものであって。この「学習化」が全世界的に進行しているのは冒頭で述べたようなインターネットないしスマートフォンの爆発的普及が背景にあるんじゃないかっていうこと、そしてスマホあれば学校行かなくてもなんとかなるだろう、みたいな考えをしている人の思い上がりを一旦釘を刺しておきたかったんです。これって確かにそういう人もいるかもしれないけど、ほとんどの人はそうじゃない、自分だけで完結できなくって誰かに教えてもらう必要があるんじゃないかっていうこと。そしてそれはスマホじゃなくてもパソコンであれ、本であれ現代になる前からも変わらないよね、っていうことで。昔から自己完結できる人は本でもなんでも使っていたかもしれないけど、圧倒的大多数はやっぱり誰かに教わってこそ、っていう話なわけで。スマホの存在で浮き足立ってるけど、人間のスペックは昔から変わってないから、ちゃんと学校で学んだほうがよくない?っていうことも込みで考えてます。一番良くないのはそれができないのに学校にも行かなくなっちゃう事だと思うんですけど、それができるかできないかの線引きもやってみるしかわからないよね、っていう所が難しいんで、だったら学校行ってた方がいいよね、っていう話です。

卑近な例をあげるとすれば、私が勤めている学校でもオンライン上に授業の解説動画等がアップされているんですが、それをきちんと全部見て自分で学習できている人って実は多くなく感じます。同様の状況に置かれている大学生も自分で学習を完結できる人と、出席とかある程度の強制力を働かせてでも出席して授業にでることでようやく学習できる人の存在を明確化している気がします。おそらく後者の方が圧倒的に多いはずで、結局学校の授業に出席するっていうことの持つ意味が逆説的に?証明されつつあるんじゃないかっていうことですね。別に自己完結ができないことに引け目なんか感じる必要もないですし。やっぱり周りに同じく学ぶ人がいてこそ自らの学ぶ機運が上がるっていうのはなんとなく感じてきた人が多いかもしれません。この辺が学校にいくことの意味を考えさせるポイントになっているんだと思います。

まぁ上述したようなことは今年に入って自分も初めて納得できたことでもあるので、この論文執筆時点では思いもよらないことです。この学校の授業という形態がこれまで続いてきて、おそらくこの先も続いていくであろう、っていう風にいうためには学校で行う「授業」そのものに副次的な意味合いを持たせる必要があったわけです。要するに対面の授業「でしか」、「だからこそ」、っていうことをこの論文の中で証明する必要があったわけです。今思うとものすごく大きすぎるテーマだと思うし、それを証明することがめちゃくちゃ大変だと思うんですが、当時授業を毎週観察する中で、如実に変わっていく様子を目の当たりにしていたと思うので、あまりその辺を無理な試みとも思っていなかったです。まぁこの辺の見通しが甘かったせいで後半の分析過程と執筆過程で大変な思いをするわけですが。

ここまでで第1章です。おそらく他の章はもう少しまとめて書いていくと思うんですが、まぁこの調子で自分の修論についてまとめていきたいと思います。


第1章の引用

第1章
石黑広昭(2016)「子どもたちは教室で何を学ぶのか 教育実践論から学習実践論へ」東京大 学出版会
パウロ・フレイレ著 三砂ちづる訳(2011)「新訳被抑圧者の教育学」亜紀書房
Gert J. J. Biesta, (2010)Good education in an Age of measurement: Ethics, Politics, Democracy,ParadigmPublishers
ガート・ビースタ/ 訳藤井啓之・玉木博章(2016)「よい教 育とはなにか」白澤社
Bateson, G: Steps to an ecology of mind, University of Chicago press, 1972
Gert J. J. Biesta, The Rediscovery of Teaching, Routledge, 2017 
ガート・ビースタ/ 訳上野 正道(2018)「教えることの再発見」東京大学出版会

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