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同期とケニアと自分の居場所

インスタグラムのストーリーで、社会人になった同期が、「今日も残業お疲れ様でした〜」って載せていた。

「残業」

ケニアにいる今の自分には無縁な「残業」という言葉を目にして、めっちゃ社会人してるなぁと思ったのと同時に、ふと当たり前の事実を思い出した。

あぁ、小、中、高、大と一緒にサッカーをしていた皆んなは社会人になったのか。俺も一応社会人なのかななんて思ったりして。

自分が特殊なケースなだけで皆んなは働いてるんだよな。それで自分はいまどこにいるんだっけ。あ、ケニアか。

なんだろう、同期の皆んなを見て、焦燥感とは違うし、孤独感でもない何とも言えない気持ちになった。


大学で唯一覚えてる授業がある。「思想と表象」という授業だ。

この授業は、表象という言葉をテーマにある時代の人々が自らをどのように規定しているのかを歴史的背景から読み解くという授業だった。

表象とは、「何か」を用いて「あるモノ(対象)」を表すことである。例えば、「天国」。天国の様子を絵画で描写したり、物語で語ったり、音楽で表現したりすることは可能だろう。それらの「天国」をテーマとした作品が、「天国」の表象といことになる。

表象と言説 井上昭洋 


同期のほとんどが働いていて、自分はケニアでサッカーをしている。これまで一緒にサッカーをしてきた人たちの中で、今もサッカーで夢を見ている人は、圧倒的に少数である。それが良いも悪いもない。

人と比べ焦らされる必要はないが、表象という概念のように、人と比べることで自分が何者なのかが見えてくるというのも間違いではないと思う。なぜ社会人にならずに、自分はケニアでサッカーをしているんだというのは、重要な問いな気がするし、日々をただ生きているだけでは忘れてしまいそうになる。

そう。僕はケニアにプロになりに来たのだ。でもそれだけじゃない。

プロになりにきただけではないが、ケニアでプロになることが、その他に行っていることの意味を最大化させてくれると思う。

そして、今回のインスタのストーリーみたく人から与えてもらった情報でしか、結局自分をアップデートできないように思う。本も、映像も、今見ている景色も全ては人から与えてもらった情報。

人との関係、そして自分とはどういう存在なのか。逆に自分は何を与えられるのか。

そうしているうちに気がつけば、もう今年も半分が終わろうとしている。この文章を公開するころには半分が過ぎているかもしれないが。もう半年か。今年は特に時が過ぎ去るのが早く感じる。今年の初めに立てた目標はなんだったかな。

残業はないですが、ケニアでやり残しがないように今から練習で泥だらけになってきます。

今日も他者と自分を交互に見た時に起きた体の揺れが、前へと体を押し進める。

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