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再出発

いくら歳を重ねても、自分の弱さを受け入れることは容易ではないと感じます。むしろ、歳をとるほどに受け入れられなくなるものです。

けれども、その「弱さ」をひた隠しにして生きていくことも、容易ではない。忘れようとしても、必ずどこかで自分の足を引っ張ろうとしてくる。喉に絡んだ痰のように、いつまでもへばりついてくる。

わたくしホリードBは、およそ1年前まで、ほぼ毎日note記事を投稿していました。しかし、病気の治療のため入院することとなり、長い間投稿を行なっていませんでした。

過去

当時私は個別指導塾に勤めていました。教室運営になどにも関わる中で、教育に対するさまざまな問題意識を抱えるようになり、大学院への進学を目指すようになります。しかし、第一志望の大学院に落ち、簡単に治療ができない病気を患い入院したことをきっかけに、もう色々と「どうでもいい」と感じるようになっていきました。誰からどんな言葉をかけられようと、心が動くこともなくなりました。この人たちに自分の気持ちを理解できるはずがない、と考えていました。挙げ句の果てに、人生を楽しそうに生きている周囲の人間を逆恨みするようになりました。このまま自分が死んでも、この人たちは何事もなかったように生きていく、そう思えて仕方なく、大変腹が立ちました。行き場のない感情は、私を自殺へと駆り立てました。しかし、それは未遂に終わります。

現在

今思い返せば、「ずいぶんと甘えた考えを持っていたな」と恥ずかしい思いでいっぱいです。最も恥ずべきなのは、責任逃れの姿勢です。自分の人生に責任を持てていなかったということです。大学院に落ちたのも、病気を患ったのも、人間関係がうまくいかなかったのも、全て自分の責任によるものです。もちろん、極端な自責思考に陥るのはよくないのかもしれません。しかしながら、どんな状況でも、変えられるのは自分の思考と行動だけ。大学院に落ちたなら、さっさと次の道を探す行動を起こす。病気を患ったのなら、症状の改善に向けてできることを調べ実践する。人間関係がうまくいかないなら、その原因を特定し、対策に向けたアクションを起こす。自分の人生に責任をもつというのは、そういうことであるはずです。いつまでも被害者を演じ、報われない自分を可哀想に思っているだけの人間が、救われることなどあり得ません。そして、他者を妬んだり、恨んだりすることに意味はありません。他者というのは、いわば、「自然の情景の一部」に過ぎません。道端の石ころの形状が気に入らないからと激怒している人がいたらどうでしょうか。ずいぶんと無意味な行動に思えるはずです。他者というのは、所詮はそんなものです。(しかしもちろん、私たちをハッと感動させたり、ホッと安心感を与えてくれる自然の情景もあります。それが世間で言う「恋人」や「友達」というものです。)


絶望している暇なんてない。
目標を立てて行動するしかない。
そして、その方向に向けて努力するしかない。

さて、今日から、再びnoteでの活動を再開します。
改めてよろしくお願いします。

ホリードBなどという訳のわからない名前は改めます。
私は堀 夢叶。ありのままの自分を受け入れながら、これからも生きていきます。

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