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夢に関する断片〈六〉
「引っぱれ、引っぱれ」。そう言いながら、その日の朝、わたしの顔の前でMが笑っていた。寝ている時にわたしが発していたらしいが、夢の内容をわたしはまるで覚えていなく、そのよくわからない台詞の出どころがMになり、Mとはその日、久しぶりに会えて、それだけでよほどうれしかったのか、わたし自身が持ち合わせていなかった言葉がどこかぎこちなくわたしの頭のなかを漂っているあいだもMは笑っていて、わたしのように言葉で
もっとみる夢に関する断片〈五〉
夢の中で、何か言いそびれたこともない。目つき。知らないひとのような顔をしていても。起きて間もなく、言い尽くされているかのようだった。何の弾みもなく言い終えて、言い終えてからいち日が始まったようだった。人前で(人、というのが、ある特定の人物でしかなかったことが数多あったかもしれない)、何か難しげなことを言おうとしていたことも、何も言いそびれてはいなかった夢のことを思い起こすと、とても滑稽なことのよう
もっとみる夢に関する断片〈四〉
有言され、やがて実行される物事にたいして、どことなく物足りなさを感じる。夢は物足りなさとは程遠いもののように感じる。物足りなさを感じたとしても、誰に文句を言えばよいのか。文句のつけようがない。
「不言実行の領域」
詩作の始まりは、眠りにつくのと似ている。眠ろうと思って直ぐさま眠りにつくことは容易くなく、眠りますと言ってできるものでもなく、大抵はいつの間にか眠りについている。詩作も同様に、「書き
夢に関する断片〈三〉
「解釈」したり、されたりすることはあっても、夢を「批評」するものはいないだろう。批評されないからといって、夢は、はたして、脆弱なものなのだろうか。
しかし、批評されないのは、夢がそのまま作品とはならないゆえんでもあるのかもしれない。
夢に関する断片〈二〉
わたしが五感を備えていれば、夢もそれらを備えているのが不思議だ。
たとえば味覚について。実際にケーキを食べたわけではなくとも、食べた夢をみれば、食べていたと、〈しっかりと〉回想される。
触覚について。フォークを握っていたと回想される。べつにフォークでなくてもかまわない。いずれにしても、手触りや味、匂い、それらが〈欠けていた……〉とまでは思えないだろう。手ざわりや匂い、〈そこまでは思い出せない〉
夢に関する断片〈一〉
実生活では記憶しておかなくてもよい物事や出来事は稀であるのにたいして、夢は記憶しておかなくても許される。
Twitterから離れ、徐々にnoteへと移行していきたい。ここは静かだ。今年に入ってから4月半ばまで体調が優れず、仕事以外での外出が困難だったけれど、今日ようやく、2024年になって初めてプライヴェートでギャラリーへと足を運ぶ事ができた。静かな時間が流れていて居心地がよかった。
[詩] この眼の眺め
あなたのいないところで
雨で萎んだ犬が通るのをみている
わたしにはあなたを忘れるときが多い
窓硝子を思い出すことがある
風吹いて看板の下で 揺れていたのを機に旗を数えたのに
旗がまだ揺れてみえている
『現代詩手帖』(2019年3月号)投稿欄選外佳作「数えのなかで」より改題
初出:個人詩誌「翌翌」(四号)、 発行:2021年7月20日
[詩] 中一日
今がいくつになって、
叱られた手のひらは
恋慕の余りをくぐり抜け
相性の その全てと少しの間
休めたら
一日中
子供だった 子供の
中一日は
おとこの太腿の、そのうえではひとづてに
いちから寝過ごして
稚気の水溜まり いくじなし
恋人は泣いている
[詩] 栞いり
一度ならず日に結わえつけられてあるものは
ひとえに思いつく
一子の姿がくすねられては夜と共にさわるとしたたかな
鏡の向きを
直したあと片膝の
傍らには読みさしの
ひとみしりの似顔絵の栞がわたしがなおも
くらすところの部屋がここにはあった