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人間は思った以上に無関心

Xを徘徊していたら次のポストを見かけて、過去の自分への嫌悪感と今の後輩への徒労感とが押し寄せてきて、ぐったり
でも、心の中では、それなーーー!!!という共感のベルが鳴り響いていて、回答者の方の「感度」の高さに感動を覚えました
代弁者とはかくあるべき

「感度」の高い人の書く文章は、もやっとした気持ちとか言葉にならない感情とか、自分では掴み切れていない不定形に、突如として形を与えてくれる。それはまるで、欲しいサイズの家具とか収納を見つけてシンデレラフィットした時とか、漠然と思い描いていたデザインのスマホケースに出会った時とか、そういったドンピシャの快感に近い

入社してすぐの頃、その場その場では与えられた指示に沿って仕事をこなせていたけど、案件後に同僚や先輩からその案件の話を尋ねられると答えられないことが多くあった
それはもちろん、働きすぎ・睡眠不足による記憶力の欠如によるところも大きいのだが、それ以上に見たもの・聞いたもの・調べたこと・考えたことが個別に放置されていて、自身の中に蓄積されていないからだと後になって気づいた

でもそれは、覚えよう覚えようとしても(そんな膨大かつ細かなことは)簡単に覚えられるものではないし、覚える意義の薄いことも多い
今となってはだけど、必要十分なことを記憶しておくには、何が論点で、どのような選択肢が考えられて、どんな基準で判断すると、この結論になる、みたいな、要所を理解して、一連の流れ・連関性の中で捉えていくことが(効率的とかの次元ではなく)ほぼマスト

で、この流れで捉えるを実現するには、ポストにあるように「感度」が重要なのだと思う。この指示の目的は何か、最終的なアウトプットには何が求められているか、この話題も関連しそうだけど調べなくていいか等、指示や目の前のタスクに明示されていないことに、どれだけ注意を向けられるかが重要に思う

ポストの相談者が書いているように、「感度」の低い・「解像度」の粗い人間は、会話の中で「そうなんだ」「知らない」「分からない」を頻発する(これは過去の自身に照らして保証できる)
そこには、その人の頭の中には、本当に何もない。知らないけど勉強になったという感想も、知らないから調べてみるという変化の兆しも、これと似ているねという連想も、ない。受け取った会話の中身を、ただそれだけの情報として、その場限りで処理しているだけで、何も残っていない
だから、すごく話していても空虚で、張り合いのない感じになる。過去の自分は周りの人にそう思われていたんだろうなと思う(当時の皆さん、ごめんなさい)

振り返ると、「感度」高くあろうと行動や思考を変化させられたきっかけは、自身の記憶の曖昧さに愕然としたことだった。それこそ実家のカレーのお肉が何だったかみたいなレベルで、何となくは覚えているけど明確には覚えられていないことがあまりに多くて、それは会話が弾まないなと自分の無力さに納得してしまった。そんな曖昧さでは、話は抽象的になるし、時系列もきっとバラバラだし、そもそも何が面白くて・何を伝えたくて話しているのかもきっと伝わらない

仕事もプライベートも、「感度」が高いに越したことはないけど、結局どうするかは自分次第。「感度」が高いから恋人ができるわけではないし、社長になれるわけでもない。とはいえ為している人は必然的に「感度」が高いとは思うが。結局は自己満足の世界

間違いなく言えるのは、「感度」の高い人の方が魅力的に映りやすいということ。そしてその方が、人には恵まれるように思う
どうせ生きるなら、その方が楽しそうだなと、個人的には思う

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