金子遊さんとのトークセッションにむけて

拙著『アメリカの〈周縁〉をあるく――旅する人類学』(平凡社)の発売を記念して、ゲストをお招きしてトークができるというので、「おー!! まじっすかー。誰でも呼んでいいんですね。じつは話してみたい人が山ほどいるんですよねー」と30名ほどの候補者をあげ、「どうせなら月1回のセッションをシリーズ化して、3~4年かけて継続できないですかねー」と投げかけたら、「2回までならなんとかできます」と、みごとに冷静かつ、至極まっとうなお返事。

うーん、まあ、そうですよね。

というわけで、1回目のトークセッションのゲストは、金子遊さん。

金子遊さんの名前を、私は一方的に知っていた。同世代の探求者に揺さぶられる経験はとても貴重で、『辺境のフォークロア』なんて、タイトルだけで、ワクワク、ドキドキ、ムズムズしてきて、居ても立っても居られない。

https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226194/

さらに、『異境の文学』、『混血列島論』なんていわれると、胸騒ぎを超えて、暑い夏の日にふいに現れたアイス屋さんのように、強烈に引き込まれるものがある。映像論に関しては私はまったくの門外漢だけど、その躍動ぶりは外から見ていてもわかる。

極めつけに、これまで誰も手をつけてこなかったマイケル・タウシグの翻訳、そして今をときめくティム・インゴルドの翻訳まで手がけている。ひとつのカテゴリーにおさまらない探求ぶり。

こうなると、これは只事じゃないわけで、会うしかない。会うしかないけど、連絡先も知らないし、どうやって会っていいやらわからない。どこかでばったり出くわさないものだろうかーーと思っていたらいたら、数年前、本当にばったり出会うことができた。

石田尚志さんの個展を見に行った際に、会場に来ていた西村智弘さんに遭遇し世間話をしているうちに、ふと「金子遊さんと会ってみたいのですが、ご存知ですか?」と尋ねると、「ここにいるよ」と言って横に立っていた人物を指した。

OMG!(オー・マイ・ガーッ!)

こんなこともあるんですね。

今年(2021年)出版された最新刊『光学のエスノグラフィ』の「あとがき」で金子さんは書いている。

「世界中で起きていること、過去に起きたできごとにわたしが応答するためには、映画や映像を観て、それを考察し、文章を書く行為が欠かせない。それだけであれば「映画批評」と呼べばいい。ところが、そこで受けたインスピレーションをもとに、沖縄、台湾、中国、東南アジア、アフリカなどへ出かけて、作品の背景にある文化や歴史を調査せずにいられない。それは広義の「映画研究」かもしれないし「文化批評」に片足を突っこんでいるかもしれない。それだけで満足はできず、現地で人びとにインタビューして歩き、映像や写真を撮影して作品をつくり、さらに旅行記も書く。その経験がフィードバックされて、自分の批評文のなかに入りこむ。ここまで来ると、自分がおこなっている活動に当てはまるジャンルが見つからない。」(281-282)

この居ても立ってもいられなくなるという感覚、頼まれたわけでもないのに実際に五感で触れてみないと気がすまなくなるというこの感触は、フィールドワーカーにとって重要な要素に思う。

思うに、こうしたフィールドワークのかまえには、物心つくまえの旅の経験、風景の感触、世界への触れ方が、関係しているのではないだろうか。そのあたりのことを聞いてみたいと思う。



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