都甲幸治さんとのトークに向けて

下北沢B&Bでのブックトーク、2回目! 

この一連のトーク成立の背景は前回書いたとおり。拙著『アメリカの〈周縁〉をあるく――旅する人類学』(平凡社)の発売を記念して、ゲストをお招きしてトークができるというので、「おー!! まじっすかー。誰でも呼んでいいんですね。じつは話してみたい人が山ほどいるんですよねー」と30名ほどの候補者をあげ、「どうせなら月1回のセッションをシリーズ化して、3~4年かけて継続できないですかねー」と投げかけたら、「2回までならなんとかできます」と、みごとに冷静かつ、至極まっとうなお返事。

そんなわけでお招きするゲストを二人に絞り込んだ。前回が金子遊さん、そして今回が都甲幸治さん。

都甲さんは、ゲスト候補として、まっさきに顔と名前が浮かんだひとりである。都甲さんとこうして顔をあわせてお話するのは、ずいぶんと久しぶりだ。

初めての出会いは、たしか東大でおこなわれたアメリカ研究がらみの研究会だったと思う。当時僕はまだ大学院に入ったばかりだった。その集まりのなかで、留学を希望する学生たちにむけてGRE対策や、そのほかの英語学習法について話をしてくださったのが、都甲さんだった。

英語を学ぶための教材を一式、重そうなカートにつめ、それをゴロゴロと転がしながら、しかし、颯爽とあらわれた都甲さんは、みんなのまえでそれらを紹介していった、と記憶している。20年以上前のことなので、すべての内容をおぼえているわけではないが、その姿、所作は、鮮烈におぼえている。

大学院で通用するヴォキャブラリーを身につけるためにと、都甲さんが強く推奨していた教材を、僕はその後さっそく購入した。届いた教材をひらいて(正確にはテープ教材だったので、聴いて)、打ちのめされた。ほとんど知らない単語ばかりではないか! 

高校三年間をアメリカ・イリノイ州のシカゴ郊外で過ごした僕だったが、アカデミックなヴォキャブラリーはまったくと言っていいほどダメだった。人類学者や哲学者が書く本格的な学術書を初めて読んだとき以来の衝撃だった。(そして、その後ハーレムの路上で、ふたたび「英語が、というより、言葉がわからない!」という体験をすることになる)

学校生活が不自由なく送れて、英語の授業のペーパーが書けて、クラスのみんなのまえでちょっとしたプレゼンやスピーチができて、つっかえつつもジョセフ・コンラッドやレイ・ブラッドベリーやスコット・フィッツジェラルドが多少読めて、くらいの高校生英語のレベルでは言葉の水脈に深くわけいって、自身の枠組みを揺さぶられつつ、なにごとかをじっくりと理解するなんてことは、まだできないのだ。いや、そういうこともできる高校生だって、いるのだとは思うが、少なくとも僕には無理だったのだ。今考えてみれば、あったりまえのことなのに!

その後、ジェイムズ・ボールドウィンの翻訳の件で相談したおりに、共和国の下平尾直さんを紹介していただき、それがきっかけで前著『残響のハーレムーーストリートに生きるムスリムたちの声』を出すことができた。下平尾さんは、都甲さんの『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)と『狂喜の読み屋』(共和国)の生みの親(担当編集者)である。

いまだ日本では紹介されていない、翻訳されていない作品にふれたときの「わからなさ」と、それをゆっくりと識っていくことの「喜び」について、都甲さんは書いている。

「……よくわからないまま数百時間かけて外国語で一冊の本を読むうちに、それまでの経験のないことが起こり始めた。句読点の打ち方や言葉の選び方、音の響きなどを通じて、書き手の息遣いや思考の癖までもが僕に乗り移ってきたのである。それは、話す言葉も違う、会ったことがない、理解もできない人と一ヶ月間同居するのに似ていた。いや、それ以上に親密かもしれない。言葉は思考そのものだから、他人の思考が僕の脳内に入り込み、僕の身体を使って暮らし始めるのだ」(『狂喜の読み屋』p.13-14)

そしてそれは、「自分の外に出て行く」行為だという。「授業でも、執筆でも、翻訳でも、僕はいつも自分の外に出て行くことを心掛けてきた。その瞬間に、自分が強い喜びを感じることを知っているからだ。(中略)これからも僕は、新たなテクストと出会うたびに狂喜する読み屋でいたい」(p.19)

「狂喜の読み屋」である都甲さんとの対談トークは、本日、あと数時間後! 畏れつつも、本当に楽しみだ。


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