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私たちは何者でもない

道草晴子さんという漫画家の、『みちくさ日記』という漫画を読んだ。幼少期から現在までの自身の人生を振り返りながら描かれた自叙伝だ。

一冊読み切りでありながら、かなりのボリュームがあるこの漫画を読み終えたとき、私は何とも言えないやるせなさと、そのやるせなさを何気ない日常の中ではなく、一つの作品の中で感じさせられたことによる妙な快感を覚えた。
人生とはこういうものではないか、と。
達成感を感じる瞬間もあれば、悲しみが一気に押し寄せる瞬間もある。しかし、ほとんどの時間はぼんやりとした倦怠感が、人生の終わりまで続いていくものなのだろう。

晴子さんは、自身の精神状態の不調に対して、様々な医師から様々な病名を付けられ、最終的にある医師の「大人になって社会生活を送れるようになってくると、病名は取れてくるんですよ」という言葉で、長年自分に貼られていた「障がい者」というラベルをはぎ取られ、代わりに強引に「健常者」というラベルを貼られることになる。
様々なラベルを貼られるたびに、「私は〇〇だったのか」「私は〇〇じゃなくて〇〇だったのか」と一応納得するものの、どこか釈然としない気持ちが残り、「私は本当は何なんだろう?」という疑問が心に居座り続ける。
私はその疑問こそが、最初の納得よりもずっと真実に近いものなのではないかと思った。「私は一体、何者なんだろう?」というこの問い自体が、私たちが近づける究極の「自分像」なのだと。

「何者かになりたい」「何かを成し遂げたい」と躍起になって前に進む私たちに対して、本当に開かれている未来は、実は「何者にもなれない自分に出会い続ける」ことなのかもしれない。
誰かに名前を付けられては剥がされ、また新たに付けられるという経験を幾度も繰り返してきた晴子さんは、きっとそのことに気付くのが他の人よりも早かったのだろう。

晴子さんの人生を「気の毒だ」と"ラベルを貼る"ことは簡単だけれど、本当にそれで片付けてしまっていいのだろうか?
自分が社会に対して何かを貢献できていると思い込み、本当の自分が何者なのかを深く考えることなく、実は社会にも大して役立っていないやっつけ仕事を繰り返しているだけではないのだろうか?
本当に気の毒なのは誰なのか?
そんな問いを突きつけられる一冊だった。

最後に、『みちくさ日記』を読んでいて一つだけ気になったことがある。
それは、晴子さんが自分を必要以上に卑下するような言葉を使う場面が何度もあったことだ。
「こんな私が…」とか「こんな汚い私を好きになってくれて…」とか、さらには両親に対して「こんな人間に育ってしまって…」といった表現だ。
こうした言葉を繰り返すことで、晴子さんのような、もしくは、むしろそれよりも大変だと思えるような状況でも一生懸命生きている人々まで、一緒に否定してしまっているように感じた。
晴子さんの姿勢を反面教師にして、私はたとえ社会的に恥ずかしいと言われるような状況に陥ったとしても、「自分なんか…」と思わず、そのときの自分にできることを精一杯やって生きていこうと強く思った。

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