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コ・イ・ヌールは呪われたダイヤモンドなのか

宝石の代表格ダイヤモンドは、4月の誕生石としてもよく知られている。昨年はタヴェルニエの記録した古いダイヤモンドについて書いた。

ほかにロッククリスタル(無色透明の水晶)とモルガナイト(ピンク色のベリル)も4月の誕生石にリストアップされているけれど、今年もダイヤモンドについて書くことにした。このところ、ある有名なダイヤモンドが話題になっていたからだ。

先日5月6日、英国のチャールズ3世の戴冠式があった。この戴冠式にあたって歴史好き・宝石好きの界隈でちょっとした話題になっていた宝石がある。ふだんはロンドン塔に収められている英国王室の至宝のひとつ、コ・イ・ヌールと呼ばれるダイヤモンド。いつしかその”呪い”が噂されるようになったダイヤモンドだ。

数ヶ月前、この伝説のダイヤモンドについての文庫本が出版された。W.ダルリンプル、A.アナンド著『コ・イ・ヌール:なぜ英国王室はそのダイヤモンドの呪いを恐れたのか』(2023年、東京創元社刊)。単行本で出た数年前にも話題になっていた書籍だけど、文庫版が出たのを機にわたしも購入した。今回の「誕生石のはなし」は、この本の読書感想文を兼ねることにしよう。

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ペルシャ語で「光の山」を意味するコ・イ・ヌールは108カラットほどのほぼ無色透明なダイヤモンド。もともとは186カラットあったものが19世紀なかばに再研磨されてこの大きさになった。

1851年のロンドン万博。鳴り物入りで公開されたコ・イ・ヌールは、英国の人びとの期待はずれに終わった。そのインド式に研磨された姿は、ヨーロッパの人びとが想定していたブリリアント・カットの輝きとは異なっていた。博覧会前から積極的に宣伝していたイラストレイテッド・ロンドン・ニューズ紙による評文が引用されている。

ダイヤモンドというものは通常無色であり、最上級のものになると、いかなる傷や欠陥もなく、純粋な水のしずくに似ている。コ・イ・ヌールはその純粋さと輝きを最大限に発揮できるようにカットはされておらず、大きな期待を胸に、人を押し分けて覗いた、すべての人とはいわずとも、多くの観客を失望させた。

『コ・イ・ヌール』文庫版209ページより

展示を主導してきたアルバート殿下の名誉回復のため、ヨーロッパ式のブリリアント・カットに研磨されることになったコ・イ・ヌール。約4割も重量を落として再研磨されたのは、これが理由だ。

E・シャリーン著『図説 世界を変えた50の鉱物』(2013年、原書房刊)より。図中8が再研磨前、10と12が研磨後のコ・イ・ヌール。

このコ・イ・ヌール、ほかの多くの英国王室のものとおなじく大英帝国の拡大にともなって占領地からもたらされたもの。

いつどこから採掘されたものなのか、正確なことははっきりしない。いままで14世紀の資料や16世紀のバーブルの財宝の記録を初出とするものが多かったけれど、本書では古代インドの神話や伝説の引用からはじまって、どれがコ・イ・ヌールについての記述なのかについては慎重な姿勢をとっている。それがまた南アジアの宝石文化とダイヤモンドにまつわる歴史の長さと深さを物語っている。

18世紀にブラジルでダイヤモンドが見つかるまではインドが唯一のダイヤモンド産地だった。コ・イ・ヌールも当然インド産だと考えられている。

16〜19世紀にインド亜大陸の北部を支配したムガル帝国では、ダイヤモンドよりもルビーが珍重された。コ・イ・ヌールを特定できる記録が乏しい理由のひとつでもある。コ・イ・ヌールはムガル帝国以降ティムール・ルビーと運命をともにしたと考えられている。

本書ではティムール・ルビーは脇役でしかない。そのためかずっとこの呼び名でしか登場しないので誤解を招きそうだ。じつはこれはルビーではなくスピネル。わたしが一昨年のルビーの際に書いたように、中央アジアのバダフシャン産のレッド・スピネルはバラス・ルビーと呼ばれていた。これが混乱の理由。

そのティムール・ルビーの来歴については、わたしが仕事でおこなったウェビナーで話したことがある。ウェビナーのスライドのスクリーンショットを載せておく。

拙ウェビナー「スピネルの歴史と科学」より

コ・イ・ヌールもほぼ同じようにその主を転々と変えた。先ほど書いたように、ムガル人はルビーをことのほか珍重し、ダイヤモンドにはルビーほどの価値を置いていなかった。だから、とりたてて特定のダイヤモンドについての記録はあまり残されていない。1612年、ティムール・ルビーはイランの王シャー・アッバースからムガル皇帝ジャーハンギールにおびただしい数の宝石とともに贈られたとの記録がある。その夥しい数の宝石のひとつがコ・イ・ヌールだった。

コ・イ・ヌールはティムール・ルビーとともに孔雀の玉座に飾られていた。絢爛豪華な宝石が象徴するように繁栄を極めたムガル帝国。その桁はずれの財宝の噂は周辺の国ぐににひろまり、隣国ペルシャの軍人上がりの君主ナーディル・シャーに攻め込まれることになる。

ムガル帝国の財宝がペルシャにわたって間もなく、ナーディル・シャーは後継者や廷臣がクーデターを企んでいるのではと疑心暗鬼におちいった。コ・イ・ヌールとティムール・ルビーは玉座からはずされ、厳重管理されるようになる。そして臣下の謀反からナーディルを守った功労者、アフガンの将軍アフマド・カン・アブダーリがコ・イ・ヌールを手にすることになった。

ナーディルが野営地で没した後、孫のシャー・ルフはコ・イ・ヌールの在処ありかについてけっして口を割らなかった。やがてコ・イ・ヌールを持っていたアブダーリはドゥッラーニーと名を変えてカンダハールで王位につく。そうしてアフガニスタンのドゥッラーニー朝がその後70年にわたるコ・イ・ヌールの主になった。

このドゥッラーニー帝国の南方ラホールにはシク教のマハーラージャ(王)、ランジート・シングがいた。ドゥッラーニー帝国末期、ランジート・シングとの駆け引きの末に、コ・イ・ヌールはふたたびインドに持ち込まれる。

書籍の第一部「王座の宝石」はここまでの流れがとても丁寧に書かれている。運び出す際に周囲を欺くためにとられたさまざまな方法、たとえば同じ箱を3つ作らせ同時にラクダで運ぶなどの方法からも、このダイヤモンドがいかに特別だったかがわかる。また、血で血を洗う南アジアの歴史とその残虐行為の描写には、この宝石を”呪われたダイヤモンド”と見なすにはじゅうぶんな迫力がある。

続く第二部「王冠の宝石」は、英国とインド北部のパンジャブ地方〜現在のパキスタンにあったシク王国が舞台。ここからはシク王国最後の君主、少年王ドゥリープ・シングが主人公だ。

シク王国を繁栄させたランジート・シング王が亡くなると、後継者争いで混乱が続く。相次ぐ暗殺のあとに残されたのはランジート王の死の直前に生まれた当時10歳のドゥリープだけ。

ランジート・シング最後のお妃ラニ・ジンダンは聡明な人物で、息子のドゥリープを即位させて自身は摂政を敷いた。しかし英国は目障りなジンダンを幽閉し、幼い王を保護するとして少年王ドゥリープ・シングを事実上退位させる。その機に乗じてコ・イ・ヌールを含めた財宝をすっかり手に入れてしまった。

身内と引き離され、英国人に大切に育てられ、キリスト教に改宗するドゥリープ。英国王室になじんでヴィクトリア女王のお気に入りにまでなるドゥリープ。しかし実母との再会がきっかけとなり、夢から覚めるように確信した・・・自身に起きた不遇の黒幕が英国だったことを。

女王様……わたしがキリスト教に改宗したのは、たまたま自分を囲んでいる人々がキリスト教を信奉しており、その行動が信仰に沿って首尾一貫していたためでした。我々シク教徒は生まれながらに粗野な人間ですが、自分たちの信仰における道義(つまらないものではありますが)を貫くことにやぶさかではありません。我々は口だけそれらしいことをいって、やることは別という態度は取らないのです。

『コ・イ・ヌール』文庫版248ページより

ドゥリープはキリスト教の信仰を捨て、あろうことか英国の宿敵ロシアと組むことを決意。復讐心に燃えるシク教徒を率いて、後方アフガンからのロシア軍を援軍にして対英戦争を企てる。この手のひら返しの展開はなかなかにスリリングだ。

しかし故郷へ向かう途中で捕まり、すべてを失って孤独のうちに客死したドゥリープ。その破滅的な最期もまたコ・イ・ヌールの呪いを彷彿させるものだ。

さて、どうしてこのコ・イ・ヌールが英国の戴冠式で注目されていたのか。

コ・イ・ヌールは英国にわたってからたびたび戴冠式に登場した。1902年エドワード7世の戴冠式でのアレクサンドラ王妃、1911年ジョージ5世戴冠式でのメアリー王妃、1937年ジョージ6世戴冠式でのエリザベス王妃、1953年エリザベス2世戴冠式でのエリザベス王太后。コ・イ・ヌールはいずれも女性のみの王冠を飾った。

戴冠式以外では、1866年にヴィクトリア女王が議会に復帰した際、喪の装いの飾り帯にコ・イ・ヌールをつけて登場したり、とにかくもっぱら女性。そう、英国ではこのダイヤモンドの呪いがもたらされるのは男性君主のみと信じられるようになっていたから、女性しか身につけていない。

しかしエリザベス2世女王は生涯コ・イ・ヌールを身につけることはなかった。コ・イ・ヌールが英国にもたらされた経緯に疑念が残ること、インド、パキスタンそしてアフガニスタンからも返還要求が何度も出されていること、一説にはそうした事情を鑑みて外交上の配慮から身につけないのだとも言われていた。しかし女王本人からの言及がない以上、それは憶測の域を出ない。呪いを恐れていたのかどうかもよくわからない。

そうした経緯があったうえでの今回のチャールズ3世の戴冠式。注目の的だったのは、晴れて王妃として列席するカミラ夫人の王冠。王妃が使用すると目されていた聖エドワード王冠がエリザベス2世の戴冠式で王太后を飾った際には、その正面でコ・イ・ヌールが光っていたからだ。

2月のガーディアン紙には、カミラ妃はコ・イ・ヌールをはずした聖エドワード王冠で戴冠式に臨むとあった。

実際の戴冠式もそのとおり。カミラ妃の頭上にあったのはコ・イ・ヌールではなく南アフリカ産のカリナンIII〜Vをつけた聖エドワード王冠だった。

今回はインド独立後はじめての戴冠式。そしてそのインドからは改めてコ・イ・ヌールの返還要求が出されている。コ・イ・ヌールはシク王国から英国に贈られたものであり、英国には返還する意志はない。英国側が再三こう言い続けているうえに、さすがに挑発するわけにはいかない。そもそもそんな挑発に見合うメリットなどまったくない。常識的に考えてコ・イ・ヌールの登場はありえなかった。

コ・イ・ヌールは実際に使われることなく、ロンドン塔で飾られ続けるだけの運命になってしまった。誰も身につけないという意味では、呪いは封印されたのかもしれない。しかし、こうして旧植民地から再三返還要求が出されるというのは、英国にとっては呪いの一部だと解釈されたりしないのだろうか。国際的に国が不安定化するきっかけになるかもしれないのだから。

◇◆◇

読書感想文を兼ねて書くと言いつつ、書籍のあらすじと戴冠式のニュースばかりで取りとめがなくなってしまった。

この書籍のジャンルとしてはノンフィクション。丁寧に史資料を参照して明らかになった客観的な事実を中心に組み立てられている。しかし抑制された表現ながら、そこに見えるコ・イ・ヌールをめぐる人間模様と登場人物の心境描写は、さながら歴史小説のようでもある。

本書の前書きには、著者が調査したなかであらたな歴史秘話がみつかったと書かれている。

そんな秘話のひとつが、19世紀はじめのアフガニスタンでのエピソード。ドゥッラーニー帝国末期の混乱でいっとき行方不明になったコ・イ・ヌールとティムール・ルビー。あるイスラーム法学者が、それがコ・イ・ヌールだとは知らずに数年間文鎮として使っていたという、ちょっとユーモラスな話だ。

この法学者はおそらく男性だろう。彼はその後どのような生涯を過ごしたのか。男性にのみ呪いがかかるというコ・イ・ヌールはこの法学者も呪ったのか。君主ではなければ呪われないのか。そんな疑問が湧いてくる。

この法学者については、文鎮のエピソード以外なにも書かれていない。だからほんとうに何もわからない。ただ明らかなのは、彼がその文鎮がコ・イ・ヌールであることを知らなかったことだ。

案外ここに答えがあるかもしれない。

ほんとうはコ・イ・ヌールの呪いなんかないのだ。

呪われているかのような不幸はいずれもこのダイヤモンドをめぐって争われたことの結果。奪い奪われ続けた結果、何百年ものあいだ世界を旅してきた。とびきり美しいものが欲望の対象になって争奪戦になれば、ある者は幸福になり、またある者は不幸になる。ひとときの幸福はいずれ不幸になり、それが連鎖する。そんな人間のごうの深さを浮き彫りにしたのが、コ・イ・ヌールだった。

ごう」と書いたけれど、まさに仏教思想のカルマだ。北インド発祥の仏教の概念だけに、なんだか説得力がありそうに思えてくる。西洋人には理解し難い感覚かもしれない。

186カラットあったとされる再研磨前のコ・イ・ヌール。換算すると37.2グラムになる。ペーパーウェイトとするにはちょっと頼りない感じがするけれど、小ぶりな鶏卵大だったというから、大きさとしては手頃だったかもしれない。平らな側を下にすると据わりは良さそうだ。

昨年のnoteより再掲。左側に縦に3つ描かれているのが研磨前のコ・イ・ヌール。

これ、「あるイスラム法学者のペーパーウェイト」とかいう名前でレプリカを売り出せないだろうか。呪いを信じるか信じないかはあなた次第。非科学的な迷信を笑い飛ばしたい向きのひそかな意思表示にもうってつけだと思うのだけど。

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