色は光なり。小路の向こうは彼岸なのか。
ちょうど1年前の2023年2月から数ヶ月間アムステルダム国立美術館で行われたフェルメール展。ただでさえ少ないフェルメール作品が28点も展示されたという空前絶後の展覧会だった。チケットはあっという間に売り切れ。それだけの作品を集めることができるとは、さすが本場のオランダである。
そのフェルメール展の開幕時、やはり欧州ではたいそう話題になっていたようで、ネット検索すると幾つも記事が見つかる。一昨年の《窓辺で手紙を読む女》のように、展示される作品の修復や調査で新事実がわかったりしたのだろうか。以下はガーディアン紙のレビュー記事。
とりたてて目新しい事実には触れられていないけれど、展覧会の構成については割と丁寧に紹介されている。
この記事によると、展覧会の冒頭には《小路》が展示されていて、この作品でフェルメール作品の世界観へ来館者を誘っているとある。次いで現れる《デルフトの眺望》で気分はフェルメールの生きた17世紀のデルフト。あとは初期の宗教画と人物を描いた室内画が次から次へと迎えてくれる贅沢な構成だというのがわかる。
超のつく有名作品が幾つもならぶからだろうか、敢えて地味な作品を冒頭に据えていて、そんなところにも余裕が感じられる。
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この冒頭に展示されていたという《小路》はわたしの好きな作品だ。
作品タイトルの邦題《小路》は先にルビを振ったように“こみち”と読むらしい。
じつはわたしはずっと“こうじ”と読むものだと思いこんでいた。2008年の展覧会では邦題に振り仮名がなく、勝手な思い込みでそう読んでいたのだ。それはよく地名で“○小路”とあるから。大通りが大路で小さめの通りが小路。北大路に錦小路と、現代の京都にはいくつも残っている。北大路魯山人に武者小路実篤、彼らの苗字も地名由来だろう。やぶらこうじのぶらこうじ、あぁこれは寿限無か。
閑話休題。2008年に東京都美術館で開催された「フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち」では、7点のフェルメール作品が展示されていた。《小路》はそのうちのひとつで、当時名古屋に住んでいたわたしは東京出張にかこつけて観に行った。
この小品は、石畳のちいさな通りに面した煉瓦造りの民家を描いたものだ。ひとつひとつ丁寧に描写された煉瓦や窓枠、要所要所に配置された生活感のある人物、建物の存在感を伝えるやや縦長の構図と空が順々に目に入ってくる。一点透視の消失点に向かって奥に見えるは中庭か。当時の風俗画に多い寓意は(あるのかもしれないけれど)感じられず、17世紀オランダの市井の様子を顕したものとしてとても臨場感がある。見飽きない。
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アムステルダムの大フェルメール展に話を戻す。この展覧会、1年遅れではあるけれど、なんとオランダまで行かなくても日本で楽しむことができるのだ。
展覧会の準備段階から記録映像が撮られ、それに専門家の解説が加えられて、先日映画として公開された。展覧会の一連の企画なのだろうか、鑑賞料金も映画館の各種割引の対象から外されて特別料金の2,500円。強気である。
わたしは先の連休に観に行った。ちょうど1年前にも同じ映画館に行っていたことをスマホの通知で知り、行動パターンが変わっていない自分に苦笑した。
余談はさておき、結論を先に述べておくと、観て良かった。とても良かった。
展示作品ひとつひとつがスクリーンに大映しになるのは映画館ならでは。もちろん迫力がある。貸し切り状態の美術館でひとつひとつの作品に対峙しているような感覚が嬉しい。この感覚はまだまだメタバースの世界よりもはるかに上質だ。
そして、その作品の解釈や画家にまつわることについて学芸員や批評家が解説してくれる。これはたとえばNHKの「日曜美術館」ででもありそうな構成なのだけど、オランダの研究者や修復家の言葉というだけで説得力が違う気がする(他意はありません、NHKさん日本の研究者さんゴメンなさい)。
修復に伴う新たな話は《青衣の女》の背中側のフチに明るめのブルーが使われていたことぐらいで、ほかにこれといって大きな発見はなかったように思う。この展覧会で圧巻なのは28点がそろったことなのだから、このさい新発見は脇役でよいのだろう。
映画で触れられていたのは、カトリックへの改宗のことや戦争に左右された経済状況、《取り持ち女》の自画像とされる人物、珍しく男性を描いた《地理学者》と《天文学者》は注文制作…そういったどこかで聞いた話が多かった。以前よく取り沙汰されたカメラ・オブスクーラとか最近の《窓辺で手紙を読む女》の画中画などはもう話題性がないのだろうか。
そうそう、興味深かったのは、《デルフトの眺望》が描かれたのは火薬庫の爆発事故の数年後で、フェルメールは敢えて事故の前の古き良きデルフトを描いたという話。運河の対岸がかつてのデルフトの街の姿。運河の手前すなわち此岸が制作当時の様子だから、まさに彼岸に理想のデルフトが描かれているという。
なんとも仏教的ではないか。
彼岸の理想郷はじつは洋の東西を問わない発想かもしれない?いやいや、デルフトはアジアとの海洋交易で栄えた。東洋の影響がなんらかあったということなのか。それとも単にわたしの考えすぎの妄想か。とにもかくにも、一旦そう思うと、カーテンで仕切られた室内画とか壁越しの奥の部屋なんかも、みな彼岸のイメージに思えてくる。
◆
この映画を観ていると、美術作品や美術史を研究し展覧会を企画する学芸員の視点がよく伝わってきたのはもちろん、画家が見て感じたであろうこと、彼が制作で意図したであろうことも、実際に展覧会の会場で音声ガイドを通して聞くよりもすんなりと入ってくるように感じた。
わたしは展覧会で音声ガイドを利用することはほとんどない。知らないことの多い展覧会なら重宝するのはわかっているのだけど、鑑賞しながらあれやこれやと考えてしまうわたしにとっては、かえって邪魔に思えてしまうことが多いのがその理由だ。音声ガイドにあることはだいたい図録に書かれていたりするから、図録を買って後で読みかえせば良い。会場では作品を前に好き勝手に考えて、会場から離れてから図録を読む。しかも読むのはいつでも何度でも可能なのだから、いつしか音声ガイドを利用するメリットを感じなくなってしまった。
この映画のような映像記録は動く図録のようなものかもしれない。映画館では巻き戻しはできないけれど、DVDや配信では可能だから、展覧会の記録のあり方としては悪くない。現実的かどうかはさておいて。
ちいさな美術館の学芸員さんが最近上梓された書籍『学芸員しか知らない 美術館が楽しくなる話』(以下リンクはAmazonアソシエイト)には、美術館の裏側や美術展の準備についてとても丁寧に説明されている。
この書籍のなかに「大型企画展の仕掛け役マスメディア」というセクションがある。「美術館をささえる仲間たち」という章のなかだ。ここでは新聞社が取りあげられている。
映像については言及されていないので、やはり珍しいのだろう。さすがに映画館での公開となれば、このフェルメール展のようなチケット完売レベルでないと採算を見込むのは難しそうだ。しかし今はネット配信などの選択肢もある。新聞社がつく規模の企画展になると、映像化はありえない話ではないかもしれない。たとえば図録の代金に上乗せして映像を視聴できるオプションをつけるとか。新聞社の担当者さんの“それ以外のすべて”に含めるには大きすぎるという問題はありそうだけど。
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前後するけどふたたび映画の話。
批評家が何度もフェルメール作品に「筆の跡が見えない」と強調していた。文脈から迫真の描写についての発言だったのだけど、どうも彼女の意図するところがわからなかった。実物を間近で観るとけっこう絵の具の凹凸がわかるし、わたしにはフェルメールの筆跡にこそ彼の先見性と個性が現れているように思えるからだ。
点描的な光沢・質感表現、流れるような筆の運びで描かれた糸のほつれ…人物も肌と衣類では絵の具の厚みが違う。デッサンや習作を残さなかったフェルメールは油絵を塗り重ねながら試行錯誤したに違いない。そう映画のなかでも出てきたではないか。
迫真の写実表現としてであれば、たとえば北方ルネサンスなどのほうが文字どおり筆跡を残さないよう緻密に描き込まれているし、時代がくだった19世紀の新古典主義や20世紀のハイパーリアリズムこそ徹底している。もしや「筆跡がない」というのはフェルメールらしいソフトフォーカスを指しているのだろうか。
ソフトフォーカス。これは写真の用語だけれども、やはり写真技術のさきがけだったカメラ・オブスクーラからのインスピレーションのように思える。なお、カメラ・オブスクーラの像が描画にどれほど使われたのかについていろいろと議論されたことがあったけど、わたしはインスピレーション以上はなかったと考えている。暗室でしか見えない像を油絵にトレースのように応用するのは非現実的すぎる。
ここでインスピレーションと書いたのは、フォーカスだけでなく色と光の関係にもフェルメールなりの理解があったような気がするからだ。
映画でも「色は光だ」と言っていた。フェルメールの室内画の光の表現を見ていると、暗闇を描くことで光を描いたほかのバロック絵画とは異なるアプローチをしているように思える。色の正体が光であることを悟ったフェルメールが試みていたのは点描的な質感表現であり、限られたカラーパレットによる豊かな色彩だった。
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2007年に《牛乳を注ぐ女》が来日した際の展覧会図録に、今回の映画のなかでも何度も発言していたターコ・ディヴィッツ氏がじつに興味深い洞察を書いていた。
氏は続けて具体的な箇所を列挙しつつ、「フェルメールは、光の反射の仕方によって、ものの表面の質感の差が認識されるということを知っていたに違いない」と反射光へのこだわりを見出している。
光、すなわち波長ごとに色の違う光線が合わさった白色光は、物体に当たると一部が選択的に吸収されて残りの光が“色”として認識される。これはわたしが昨年アレキサンドライトにちなんで書いていた選択吸収。宝石のような透明な物質であれば透過光が主に見えるけど、不透明な物質なら見えるのは反射光だ。
フェルメールが反射光に着目して表現していたというのは興味深い。
わたしもこの《牛乳を注ぐ女》の一部を模写していたのだけど、このディヴィッツ氏の洞察には納得だ。映画で「色は光」とのフェルメール絵画に対する気づきを聞いて、ずっと前に模写したときの感覚を思い出した。
色は光でつくられる。
光学に秀でた知人友人を通して得たであろうこの知見。それをみずからの手で表現する試みはさぞかし楽しかったに違いない。当時の他の画家の影響も受けながら、その描写の細部には先人の作品にはない明敏さが映じていた。
◇
《小路》ではじまったこの映画、次々とほぼ時代を追ってフェルメール作品が現れる。終わってみれば、貸切で大フェルメール展を鑑賞したかのような満足感がある。しかもギャラリートーク付きで。
冒頭の《小路》が展覧会の導入になっていたのは、この絵が一点透視図法で描かれていることとも無縁ではない。まるでこの民家のなかへ進んでいくような感覚になる。
わたしが小路の読みを「こうじ」と間違えていたからかもしれないけれど、なんだか京町家みたいな感じもする。当時のオランダも間口の広さで課税されていたから鰻の寝床のような構造の家屋が多かったと聞く。日本家屋には手前に客をもてなすハレの空間があり、奥に日常のケの空間が広がっている。オランダの家屋がどうなのかは知らない。その奥は日常空間になっていて人びとの営みの素の姿があるのは同じだろう。
フェルメールの室内画では、手紙を読んだり使用人が家事をしたりといった日常の姿が描かれている。そこを窓の外からの光が照らしている。光は神の現れであり、色の本質である。その光が照らし出すものには、描かれる対象の本質への鋭い眼差しがある。
運河越しに古き良き街の姿を描いた《デルフトの眺望》。わたしは三途の川の向こうの彼岸に通じるなんて妄想を述べた。フェルメールが色の本質である光に留意して描き出した、つまり神に照らされた人びとの日常は、爆発事故前のデルフトの街と同様に理想の姿だったかもしれない。
フェルメール作品にはどれも彼岸の姿があるように思えてきた。あの小路の民家の奥につづく大フェルメール展も彼岸のような理想郷。絵画も美術展もつきつめれば理想郷。映画もそうだ。つきつめればわたしたちは彼岸をめざして人生を歩んでいる。理想郷はあちらこちらに見えている。
フェルメールは画家であるいっぽう、15人の子をもうけ、大家族を抱えた一家の主人でもあった。寡作だったのは日常の多忙さも一因だったのではないか、なんて思う。また、彼はその生涯をデルフトのせまい範囲で過ごした。17世紀の当時、ひとつの街で一生を終えるのは珍しくなかっただろう。外の世界を見ずして、いや、だからこそなのかもしれないけれど、これだけ絵画表現への洞察を深めたのだ。このことはわたしたちにある種の希望を与えてくれる。
そんなちょっと大袈裟なことを考えてしまった映画鑑賞(と美術鑑賞)だった。
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