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そこに美術館があるから

オトナの美術研究会の月イチお題note企画、今月のお題は「#私が美術館にいく理由」。いままで参加メンバーの提案からお題が選ばれていたけれど、今回は主宰のちいさな美術館の学芸員さんによるお題。

なんとなんと、展覧会を企画する身でありながら、来てくれる人の気持ちが本当の意味ではわかっていないじゃないか、と気がついてしまったわけです。
     〔中略〕
なにゆえ、みなさんはお忙しい中、時間とお金をつかって、美術館に行くのでしょうか。
     〔中略〕
一言で言えば「好きだから」で終わるとは思うのですが、そこをもうちょっと掘り下げて言語化してくれると、とてもとてもありがたいです。実はご自分でも意外な答えが見つかったりして?

恒例企画「月イチお題note」5月のお題発表 より

ふむふむ、たしかに仕事で足を運ばれていると一般の来館者とは視点は大きく異なりそうだ。わたしもミネラルショーやジュエリーショーに赴くのは自分の仕事が宝石の鑑別だからであって、一般の鉱物ファンの皆さんと目的が一致するわけではない。わたしの場合はショーに行くだけで、開催はおろか企画もしないから気楽なものだけど、その点、学芸員さんは企画する側なのだからもっと切実なのだろう。

◆◇◆

なぜ美術館へ行くのか。

もはや習癖とも言えるほど美術館訪問が日常化している美術ファンにとって、これは難しい問いだ。

エベレスト登頂を目指す理由を訊かれたジョージ・マロリーが「そこに山があるから(Because it's there)」と答えたのは有名な話。同じように「そこに美術館があるから」が答えになるかもしれない。

わたしは最近でこそせいぜいひと月に1〜2回程度でおさまっているけれど、それでも美術館はわたしには身近な存在だ。どこの美術館でどんな展覧会があるのか、混み具合はどうなのかをいつも気にしている。もちろん休みの日や気が向いたときに足を向ける先は、ショッピングや映画、家族で楽しめる施設のこともある。ただ、ひとりで動けるときに候補として真っ先にあがるのはいつも美術館や博物館だ。

ことし2023年に、わたしが出かけた展覧会。これらを振り返ってみると、「そこに美術館があるから」以上の動機が見えてくるかもしれない。

わたしは年始からこの5月の後半までに以下の展覧会に出かけた。

  • 「佐伯祐三 自画像としての風景」於東京ステーションギャラリー

  • 「極楽鳥」於インターメディアテク

  • 「エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」於東京都美術館

  • 「本と絵画の800年」於練馬区立美術館

  • 「憧憬の地ブルターニュ」於国立西洋美術館

  • 「エドワード・ゴーリーを巡る旅」於渋谷区松濤美術館

あと、厳密には美術館・博物館ではないのだけど、台東区立一葉記念館に企画展「樋口一葉と和歌」を観に行った。

このなかでnoteで感想を書いたのは佐伯祐三展だけ(かなりサボり気味・・・)。せっかくなのでそれぞれの展覧会について動機と感想を手短に書いておくことにしよう。

そのうえで、あらためてお題の「美術館に行く理由」を考えてみることにする。

東京ステーションギャラリー

●企画展「佐伯祐三 自画像としての風景」

詳しくはすでに以下リンクのエントリに書いたとおり。さっき「真っ先に美術館を思い浮かべる」なんて書いたところなのに、じつは映画館のついでだった。いや、もちろん東京駅近辺にいくつかある美術館の展覧会の内容をおさえたうえでの選択だったから、まったくの思いつきというわけではないのだけど。

先月に書いたようにわたしは東京駅の駅舎が好きだ。東京ステーションギャラリーを、あの煉瓦壁に囲まれたくて選んだ側面は否定できない。美術館の雰囲気や佇まいもおおきな動機だ。

インターメディアテク

●特別展示「極楽鳥」

東京丸の内のKITTEにある東京大学総合研究博物館の分館インターメディアテク。開館10周年を記念しての特別展は、VCAのレコール(ジュエリーと宝飾芸術の学校)との共同企画で、鳥類の学術標本と鳥モチーフのハイジュエリー作品が展示されている。もちろん仕事がらみの関心があっての訪問だった。

わたしは大学に附属する博物館に勤めていたことがある。いまは違う仕事なのに、そのときの感覚が抜けず展示や解説の仕方などから勉強させてもらうつもりで観てしまう。

英国オックスフォードのピットリヴァース博物館やロンドン自然史博物館のような“古き良き博物学”を思わせる展示空間。一般の知名度がどの程度なのかよくわからないけれど、好奇心をくすぐるようなこの雰囲気、もっともっと広まると良いなぁと思う。

インターメディアテク2階の貝殻の標本の展示ケース
インターメディアテク3階の特別展示。これらはいずれもジュエリー。

東京都美術館

●特別展「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」

東京都美術館は美術団体の公募展に使われる会場で、そのせいなのかほかの美術館ほどの個性がない(それが個性なのだけど)。ただ美術館や博物館の集まる上野公園にあるので、興味深い展覧会が開催されていれば足を運ぶ。わたしにとって都美術館はコンテンツで選ぶ美術館の代表だ。展示に関心が薄ければ、あるいは辟易するほど混雑しているならば敬遠してしまう。逆に、わざわざ行くときはそれだけコンテンツに惹かれたということでもある。

このエゴン・シーレ展、展覧会名のわりにシーレ作品が少ない。むしろレオポルド美術館展かウィーン分離派展とでも呼んだほうが良さそうだ。わたしは表現者としてのシーレ、いかにしてシーレがあの作風にたどり着いたのかに関心があった。シーレ本人による作品だけでなく周辺人物の作品が多かったことで、当時のウィーン美術界を垣間見られたのは嬉しい誤算だった。

会場の壁面にもあったシーレの言葉「すべての芸術家は詩人でなければならない」。

練馬区立美術館

●特別展「本と絵画の800年 吉野石膏所蔵の貴重書と絵画コレクション」

中村橋駅からのアプローチと公園もあわせてどこか一体感のある練馬区立美術館。ここでは、書物に関する展覧会が多い。展示室入口のゲート部分や館内表示が企画展・特別展にあわせて毎回デザインされるのが楽しい。

展示室の入口。この演出が毎回個性的なので、わたしのなかで楽しみのひとつになっている。

展覧会の白眉は時祷書だった。残念ながら図録が完売状態だったので手元で参照できる資料はチラシしかない。羊皮紙に丁寧に書かれた時祷書のみならず、いかにヒトが記録するすべを発明し発展させてきたのかを振り返ることができた。顔料や道具、活版の展示もとても嬉しいポイント。後半の“クレヨン”塗り絵の展示も、オイルパステルをメイン画材にしているわたしにとって興味深いものだった。

ここは美術館自体と展示の強みがわたしの好みにあっているので、少々遠くてもチェックしている。練馬区立美術館は公園とあわせて来年以降に改装工事が予定されているそうだ。改装後の展示室がどうなるのか気になるところ。

国立西洋美術館

●特別展「憧憬の地ブルターニュ —モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷」

建物は言わずと知れたル・コルビュジエ設計の世界遺産。西美は特別展だけでなく常設展の内容もさすがの充実ぶりだ。

ブルターニュといえばモンゴルに住んでいたときにしばしば利用していたブルターニュ料理店(まだあるんだろうか)、そして何年か前に観た映画「燃ゆる女の肖像」を思い出す。

わたし自身にとってはブルターニュは未踏の地。ヨーロッパでは独特の文化と風景の地といった位置づけのこの地は日本に通じるところがある。没落してゆく将来の日本はもしかしたらアジアのブルターニュになるのかも、なんてことを訝りつつ観た。

国立西洋美術館へというよりはこの特別展に関心があって足を運んだ。近代絵画のインスピレーション源だった異郷ブルターニュ。こうした切り口の企画は予想がつかないぶん期待が大きい。

今まであまり関心を持っていなかったモーリス・ドニとシャルル・コッテの作品群が良かった。モーリス・ドニの色彩には、わたしの表現の幅を広げてくれそうな霊感がある。美術館を出たあとの上野公園の樹々と光にあの色彩が見えた。自分がブルターニュに行けばどんな絵が描けるだろうかと夢想した。

渋谷区立松濤美術館

●特別展「エドワード・ゴーリーを巡る旅」

まだ“遊べる本屋”ヴィレッジ・ヴァンガードが中京地区限定の店舗展開をしていた頃、名古屋市天白区のヴィレッジ・ヴァンガードに並べられていた絵本でエドワード・ゴーリーを知った。翻訳家の柴田元幸氏を知ったのもそのときだった。

その日本語版が出版される直前にゴーリー氏は他界していた。死をカジュアルに扱ったブラックユーモア作品を見ると、出版直前に死んだというのもネタではないかと勘ぐってしまった。

絵本作品はどれもなんとなく貴族的な趣があって緻密な線描もヨーロッパ風だけれど、このゴーリー氏、じつはテニスシューズに毛皮コート姿の変人ニューヨーカー。多数の猫に囲まれて生活していたという。意外なのにどこか納得できる作風と人物像の関係、気にならないはずがないではないか。いつしか我が家の書棚にゴーリーコーナーができた。

会場の松濤美術館は、小さいながら瀟洒で素敵な建物で、どんな展覧会であれ、ここを訪れるのが楽しみだ。この松濤美術館の佇まいはゴーリーの絵本の背景になっていても遜色ないほどマッチしている。来るべくしてやって来た展覧会だという気がする。

回廊のような展示室、ソファもあるくつろげる展示空間。小規模な美術館ならではの配慮が感じられて、こんな場所が増えるといいなぁと思っている。

台東区立一葉記念館

●企画展「樋口一葉と和歌 —かなの美—」

美術館・博物館ではない、文学の資料館。だからおのずと観る対象は美術館のそれとは違ってくるはずなのだけど、美術鑑賞に共通する点もある。

樋口一葉の綴る雅文体にはその語彙とリズム感に日本語本来の美しさが宿っている。達筆の直筆原稿や手紙、色紙に書かれた和歌の鑑賞は、美術館での感覚に近い。草書の運筆がことばのリズム感に連動している。こんな喩えをするのはあまり聞かないけど、音楽で言えばジャズであり、ビート詩人のポエトリー・リーディングみたいな感覚だ。一葉のグルーヴ感はちょっと麻薬的な魅力がある。

昨年撮影した一葉の和歌(今は撮影禁止)。「首夏水 いさゝ川きのふの春のおもかげも かへらぬ水にかはづ鳴なり 夏子」

いつからかわたしは季節ごとにこの一葉記念館を訪れるようになった。

こうして実際に訪れた美術館・博物館を振り返ると、動機としてはおおきくわけて2種類ある。ひとつは美術館自体の魅力を求めて。もうひとつは展示内容にインスピレーション源を求めて。ここに挙げたなかでは、前者は東京ステーションギャラリーと松濤美術館、後者は東京都美術館と国立西洋美術館が代表例か。もちろん常に両方の要素があって、展覧会ごとにどちら側に寄るかの違いがあり、また両方を増幅させたようなケースもあるように思う。

わたしは絵を描いているので、インスピレーション源についてはいつも探しているようなところがある。だからどの展覧会でも多かれ少なかれ自分が応用できそうなものはないかという視点があるのだけど、とうぜん予想もしない出会いがあって、その新鮮さがクセになる。飽きがこない。

そうか、飽きがこないことこそ美術館に行く理由かもしれない。

建物や内装、センスが自分の好みの美術館では、立っていてもリラックスできる。脳波のアルファ波が占める割合が増している。そこに展示内容から受ける新鮮な感覚。展示内容のみでもインスピレーション源になるけれど、アルファ波が多い状態ならではの感受性があるんじゃないか・・・気に入った会場での美術展は一種の麻薬みたいなものか。

◇◆◇

冒頭のジョージ・マロリーの言葉は、じつはわたしのウェブサイトでも引用している。表現者としての立ち位置を表明した重要なページだ。2008年に書いたものだからもう15年にもなる。いろいろと状況が変わってきたので書き直したいと思いながらも放置中なのだけど。

登山家ジョージ・マロリーの「そこに山があるから」という言葉はあまりにも有名ですが、どうして絵を描くのかという問いに対して、私も「描きたい物があるから」としか答えられません。

拙サイトArtist at Heartの「Artist Statement | 私の絵画観」より

マロリーは3度のエベレスト登山に挑戦し、遭難して落命したのはよく知られるところ。愛妻家のマロリーは登頂の暁には夫人の写真を置いてくると宣言していた。後年回収された彼の亡骸は写真を携帯しておらず、人類初登頂できたのかどうかが話題になった。しかしながら結局マロリー夫人の写真は山頂からも見つからず、彼がエベレスト初登頂者なのかどうかは永遠の謎だ。

「そこに山があるから」と最高峰エベレストに挑みつづけたマロリー。「描きたい物があるから」描きつづける自分。わたしが描きたいのは、形而上学的な要素もふくめて対象の存在すべて。登山を極めたかったマロリーと、どこか共通している。

そして「そこに美術館があるから」足を運びつづける美術館。掘り下げると、そこには「飽きがこない」という要素があった。その「クセになる」「飽きがこない」は、リラックスできる環境で受ける知的な刺激体験。これがインスピレーションを誘発する。

これがあるからやめられない。

ああ、気づいてしまった。お気に入りの美術館・博物館でのナイスな企画展示には麻薬的な依存性があるのだ。このオトナヽヽヽの美術研究会での主宰者からのお題は、用法と用量に注意しないと危険なものに対する注意喚起だった・・・というのはさすがに考えすぎだろうか。


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