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鬼哭啾啾・「星の降る街」前書きに変えて

 ロシアがウクライナに侵攻したのは、2022年2月24日だった。国境の小競り合いはしばしば起きる国同士なので大きな関心を寄せたわけではなかった。ところがキーウ近郊の街、ブチャからの映像に暗然あんぜんとした。テレビ画面をBBCに切り替えるとモザイクの掛かっていない死体があちらこちらに映し出されている。
 普段まず思い浮かべることはなく、使うこともない「鬼哭啾啾きこくしゅうしゅう」という言葉が脳裏をよぎる。愚かな、人の手で惨状を作らなくても十分に現世は過酷なのだ。怒りに震えたのち、初めて日常の中で、あの言葉が浮かんだ11年前を思い出した。311、東日本大震災だ。見知らぬ他者のことで初めて鬼哭した日だった。少なくとも私の周囲では皆そうであった。
 その頃、私は病床にせっていた。
 立ち上がらなければいけない、何かしなければ、と。焦燥だけが走り回った。しかし、起き上がる力はなく、いたずらに時間は過ぎていった。病気は寛解かんかいしても体力が戻ることはなかったが、気力は回復しつつあった。それでも何かできることがあるわけではない。
 物書きがやれることは、ただ一つ書く事だった。
 私は群像新人文学賞の最終候補に残り、受賞は叶わなかったが、2008年、作家としてデビューする機会を得て大手の出版社から立て続けに三冊上梓し、文庫も二冊発行してもらっていた。滑り出しとしては上々であったが売れることも大きな話題も作れなかった。当然、書いても出版はかなわないだろうことは容易に想像できた。
 商業出版としては完全なる敗北であった。その後は病魔との闘いであった。にもかかわらず、物語をつむがないことには、作家としての矜持きょうじが許さなかった。
 一年余、苦悩の中で書き切った作品ではあったが、当然のように、この「星の降る街」は十年に渡り、日の目を見ることなく、パソコンの中に眠ることになった。
 震災後も長く、病気を理由に方丈ほうじょうに身を置き沈思ちんし黙考もっこうの日であった。
そんな体たらくを決め込んだ私に、長引くロシア、ウクライナ戦争に加えて5万人余の死者(隣国シリアを含め)を出したトルコ地震。私に三度目の「鬼哭啾啾」を浮かべさせた。
 もう、躊躇ちゅうちょしない。
 例え読者が極端に少なくても、このnoteを閲覧する見知らぬあなたに、祈りを込めて書いた悲喜ひき交々こもごもと愛と情念を伝えたい。

筆名・天田祐介
(なお、掲載するにあたって心機一転、過去に活動していた本名から筆名に変えた)

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